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by reem-akemi
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渡野喜屋(とのきや)事件をめぐってー②

2007年07月06日

沖縄戦について書いた「渡野喜屋(とのきや)事件をめぐって」の続編です。

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では、この処刑の実体はどうであったか?読谷村史編集室は2002年8月に生き残った家族の証言を聞き取り調査している。

 当時、私は四歳だったので何も覚えてないが、兄は八歳だったので、全部見ていたそうだ。私は二十歳の時、兄から両親のことを聞いた。
 私たち家族は、当時、大宜味村渡野喜屋(現在白浜)の民家にいた。その日、父は米軍からもらったメリケン粉を皆に配っていたそうだ。おそらく日本軍は、昼間、山の上の方からそれを見ていたんだろうとのことだった。
 夜中、日本兵が何十人も血相を変えてやって来て、「俺たちは山の中で何も食う物もないのに、お前たちはこんないい物を食っているのか」と言って、男たちを連れて行ったそうだ。私たちの家には、日本兵が五人来ていたそうだ。
 父は殺されるのを知っていたのか、「自分はどうなってもいいから、妻や子どもには何もしないでくれ」と言って、連れていかれたそうだ。父は、家族の目の前ではなく、別の場所で殺された。首に短刀を三つ突き刺され、両方の膝の裏側を「日の丸だ」といって、五〇〇円玉ぐらいの大きさで、丸くくりぬかれていたそうだ。日本兵は、それを「勲章だ、勲章だ」と言って持って行ったとのこと。父は「おかあ、おかあ」と言いながら死んだそうだ。周りは血の海だったそうだ。
 男たちを連れて行った後、日本兵たちは「いい話があります。いい話があります」と言って、残った女子どもを浜に連れて行き、「一、二、三」と言って、手りゅう弾を三つ投げた。その時、兄のそばにいた人は内臓が飛び出して死んでいたそうだ。たくさんの人が亡くなったそうだ。
 幸い兄と妹は無傷で、母は足に軽傷を負ったが、私は顔と手足を負傷して動けなかった。それで、私を残して、母は妹をおぶって兄といっしょに父を探しに行ったそうだ。
 父の死体を見つけたとき、あまりのむごさに母と兄は気絶したそうだ。その時、米兵が母と兄に水を飲ませ、いっしょに父を埋めてくれたそうだ。
 二十歳の頃、私は兄から戦争中のことを聞き、渡野喜屋(大宜味村)を訪ねた。こうこういう理由で読谷から来たと話したら、地元の方が案内してくれたが、あんまり話は聞けなかった。
 私は、現在、本土で結婚して暮らしているが、盆正月には仏壇のことが気になって毎年帰っていた。夫が「男、女ってないから仏壇を持って来なさい」と言ってくれたので、ユタを頼んで拝んでもらい、今は本土に仏壇を持ってきてある。主人はいい人だが、私は、父を殺した同じ大和の人と結婚していることを気にしている。仏壇に向かって、いつも「こんなだから許して下さい」と言って拝んでいる。

 以上が渡野喜屋で起きた事件のあらましだが、このように住民をスパイ視して虐殺するケースは沖縄戦の末期には各所で起きる。住民そのものも情報操作をされ互いに監視しあっていた。渡野喜屋事件の発端も近くの住民が米軍から食糧を支給されている避難民をスパイ視して軍隊に密告するところから始まった。地域全体が飢餓とマラリアに侵されている状況で米軍からの食糧の支給は妬(そね)みの対象であったのかもしれない。
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by reem-akemi | 2007-07-06 00:09 | 政治・経済・国際情勢