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by reem-akemi
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渡野喜屋(とのきや)事件をめぐって-③

2007年07月12日

「渡野喜屋(とのきや)事件をめぐって」の最後の章です。
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・住民をスパイ視する日本軍

 互いを監視させあう作戦は1944年から始まる。第32軍司令部は11月18日に「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」を策定。「常に民側の真相特に其の思想動向を判断し我が報道宣伝の効果、敵側諜報宣伝、謀略の企画及び内容の探査等敵策動に関する情報収集に努め敵の諜報、謀略並びに宣伝行為の封殺に遺憾なからしむ」として、住民の思想動向を調査し敵のスパイ活動を封殺することとし、これに県当局や警察、地域の警防団などが協力していった。

 しかし、宇土部隊の住民虐殺はこれだけではない。4月17日八重岳から多野岳移動の途中、米軍の上陸を知らせた照屋忠英・本部(もとぶ)国民学校長を本部町伊豆味でスパイとして刺殺している。
 本土防衛のための持久戦に位置づけられた沖縄戦は、南部で壮絶な戦いが繰り広げられる一方、北部では住民を巻き込んでのゲリラ戦となった。その作戦は住民を敵と味方にはっきり区別するものだった。利用できる住民は利用し、利用できないものはすべて抹殺していった。
 屋我地(やがち)島のハンセン病施設「愛楽園」は米軍から支給された米を宇土部隊によって供出させられている。以下は宇土部隊の竹下中尉(1945年6月18日戦死)の残した記述である。

 6月8日 朝、愛楽園を訪ねる。園長の早川(早田の誤記)と泉に会い、米3石と、7月までに25石を用意するように頼む/敵の軍医が嘉手納(軍政府本部)から来ている/カリフォルニア米の4回目の積み荷は、まだ愛楽園の敵側にある(中略)園は敵の配給を受け、徐々に復興しつつある(中略)/屋我地島を我々の食糧基地として保持するために、軍隊を送る必要がある/羽地の捕虜と避難民について話す。偵察を米軍歩哨詰め所に送る。運天も久志のような状態になりそうだ。住民の報告に不快になった。敵に協力するものに躊躇はしない。私たちに協力するものとしないものを区別しなければならない

そのとき入所者は一日一個のにぎり飯で生きていた。軍隊はその彼らに対し米軍から支給された米の積荷半分、兵士200人分を要求したのだ。軍隊などというものは本当にろくでもない。凶器を持った暴力集団だ。
さて、宇土隊が投降したのは10月のこと。彼らは8月20日頃敗戦の情報を得ていたがその後も潜伏を続け10月2日投降することを決定する。
10月3日の「G2」レポートには次のように記載されている。「辺土名(へんとな)と鏡地(かがんじ)の一帯で、国頭分隊の日本軍将校12人、日本兵86人、軍夫1人が投降。国頭分隊の指揮者は、宇土武彦大佐である」。

日本軍の沖縄住民に対する「虐殺」の責任は一体どのように取られたのだろう。宇土部隊の生存者や遺族が名護に慰霊碑を建立して慰霊祭を行っている(ただし、これも彼らの「戦友」を慰霊するものだった)が、沖縄戦における日本軍の戦争責任について政府が言及した記録はない。昨今の日本軍の関与を否定する動きは、沖縄戦において、軍隊が民衆を助けるものではなく民衆にとって危険な存在であったという事実を消し去るものである。

 「戦争」は人を変えるというが、兵士は軍隊という殺人集団の訓練によって変わるのだ。民衆を分断し、憎悪を煽り立て人間の弱みにつけこみ人の心にあるエゴイズムと残虐性を増幅させる政治・軍事組織の台頭を、私たちは決して許してはならない。
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by reem-akemi | 2007-07-12 16:43 | 政治・経済・国際情勢