毎日思うこと、感じることを日々の時間(とき)の中で綴ります


by reem-akemi
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カテゴリ:小論( 8 )

5 「戦争」の検証は国益?

 戦争は人々の生活を根底から変える。家族を失うだけでなく未来そのものも失う。イラク人が再び元の生活を取り戻すには何年かかるのだろう。多国籍軍としてアメリカの戦争を支援した日本も彼らの生活を奪った責任があるが、それをどう償うべきなのか。

 英国の調査委員会はイラク戦争に関わる調査をするが、それはイラクへの謝罪を意味するものではない。紛争に関して将来の外交政策への正しい判断を求めるためのものだと明言している。私はそこに戦争をし続けてきた国家のしたたかさを感じる。イラク戦争を検証することで、過ちの責任をブレア政権に押し付け、現政権は次のステップへ進むための準備をする。謝罪は兵士の遺族のために行なう(重ねていうが、決してイラク国民への謝罪ではない)
 戦争を清算することで、英国は世界に対してフェアな印象を与えることが出来る。そしてイラク政府と新しい関係を結ぶことが出来る。すでに英国の企業はイラク内で原油開発の取引を行なっている。したたかではあるが、それでもこの検証によってこれまで見えなかったさまざまな事実が明らかになるだろう。私はそれに期待する。

 さて、日本でもイラク戦争を検証しようという動きがある。すでに趣旨に賛同した民主党・社民党の議員数名と提案した市民側との勉強会も行なった。
 提起しているのは下記の三項目。

 ①「イラク戦争支持の政府判断に関する見直し」、「自衛隊イラク派遣の判断の是非」、「イラク復興支援への日本の関わり」の3点を検証する独立した調査委員会を政府が設立し、事実関係についての情報開示や調査を行い、個人も含めた道義的・法的な責任の所在を明らかにすること。

 ②調査委員会による検証や、そのプロセス、最終報告などが、最大限公開され、誰にでもアクセスできるようにすること。

 ③検証による最終報告を受けての、日本政府としての見解を国内外に発表すること。

開戦から7年。さまざまなことが少しずつ変わり始めている。

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「市民の意見」に掲載した小論は上記で完結しますが、補足としてイラクの汚染の問題、日本政府へのイラク戦争検証の問題などをこのあと書く予定です。
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by reem-akemi | 2010-02-07 09:54 | 小論
4 イラクが枯渇する

 400万人という難民を出したイラクだが、土地が砂漠化することによりさらに多くの難民が出ると予想されている。かつて4大文明の発祥の地といわれたメソポタミア(イラク)の地には二つの大きな河、チグリスとユーフラテスが流れている。長さ2780キロのユーフラテス河はトルコ山間部を源としてシリア領内を通過する。
  一方1900キロのチグリス河はトルコからイラクへ流れ、イランからの支流もチグリスに注ぐ。両河川の合計水量は年間800億トンだったが、トルコ・イラン・シリアの治水によって水量が減少しつつある。

 European Water Association(ヨーロッパ水協議会)の報告によると、2040年までにイラクは両河水の水を完全に失うと警告している。特にチグリス河がトルコの巨大ダムにより年間300億トン流水量を減らし、その流れが変わることで下流にある水力発電所も大きな影響を受けるだろうといわれる。実際チグリス河の水量はこの25年間で25%減少している。
 また1993年にトルコはユーフラテス河の上流にも世界第6位のアタチュルクダムを完成。このダムは現在89億キロワットを発電し、ハラン平原を潅漑し18万エーカー以上の農地を生み出した。農家はこの土地で品質の優れたトルコ綿を生産している。が、これによりユーフラテス河の流水量が20%減少した。

 イランとシリアもチグリス河流域に多くのダムと貯水池をつくりイラクの水不足に拍車をかけている。またイラク南部にはチグリス河とユーフラテス河が合流したシャットゥルアラブ河があるが、イランがそこへ流れる支流の流れを変えたため塩分濃度が増加、塩害が発生し耕作できなくなった農民が難民化している。つまり、シャットゥルアラブ河の水位が低下したために海水が逆流現象を起こしたのだ。

 またダムから流れる土砂は両河川の水路、運河に沈殿し、さらに氾濫原にも堆積する。もともとイラクでは土壌そのものが塩分を含んでいるため大量の水で土地を洗い流す必要があった。しかしそれもイラク政府の予算不足で水路の清掃が出来ない状態だ。川床の堆積とともに、ゴミや未処理の汚水が川に捨てられているのも河川の汚染に拍車をかけ、公衆衛生上大きな問題となっている。

 数年におよぶ戦争もイラクの砂漠化に影響を及ぼしている。砂漠防止化に役立ち農民の収入源であったナツメヤシ(註)が戦争のたびに破壊されたからだ。いまや農民が捨て去った土地はトゲのある潅木で覆われ荒地となっている。南部だけでなく砂漠化はイラク北部にも及んでいる。ニネヴェ州では家屋・道路・農地が砂で覆われてしまったので70ヵ村の農民が土地を離れた。

(註) 生のナツメヤシは栄養価が高く糖分は75-80%ある。ビタミンA、B、D、繊維、プロティン、少量の脂肪分を含み、また水分も含まれているので、1粒あれば生命を1日維持できるとさえ言われている。ジャム、ゼリー、ジュースなどに利用され、日本でもおたふくソースの原料として使われる。乾燥させたナツメヤシは長期間の保存に耐え遠方まで運搬可能だったため旅行者の携帯用食物として、遊牧民の主食として重宝され、長い間交易品として栽培され続けてきた。バビロニア地方(イラク)は土壌に塩分があったため小麦の生産に向かなかったが、ナツメヤシは土壌の塩性にも耐性があったためナツメヤシ園が広く経営されてきた。
 イラクの主要な輸出品であったナツメヤシだが、長く続いた戦争により80%が失われたという。
* イラクとナツメヤシについてはイラク女性・リバーベンドのブログ「Baghdad Burning」、2003年10月13日の記述をお読みください。


*資料はThe Middle East Media Research Institute (MEMRI)から引用しました。

(続く)
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by reem-akemi | 2010-02-06 08:50 | 小論
2 ブレア前首相も証人に 

 7月30日、委員長ジョン・チルコットは次のように述べる。
「この調査委員会の目的は英国とイラク戦争との係わり合いを調べることです。すなわちイラク戦争に参加した経緯とそこで何が起きたのかを出来るだけ正確に迅速に調査し、かつそれを教訓として、誤りがあったならそれを将来に生かすため議会に報告します。議会はそれを受けて討議を行ないます。調査の対象となるべき期間は2001年から2009年7月末までとします」。

 首相から任命された4人の委員(マーチン・ギルバート[歴史学者]、ローレンス・フリーダム[歴史学者]、ジョン・チルコット[委員長、公務員]、バロネス・U・プラッシャー[公務員]、ロデリック・ライン[外交官])と彼らを補佐するために2人の専門家(軍事:ロジャーウィラー卿元参謀長、国際法:ディム・R・ヒギンズ元国際司法裁判所所長)が配置された。
 委員会の証人喚問は2009年11月24日から始まり2010年2月前半までかかると予想され、証人はブレア前首相(註1)を始め、2003年当時の外務大臣、駐米英国大使、国連大使などにも及び、さらにブラウン現首相も証人喚問される予定だ。証言はすべてウェブサイトに公開され世界中の人間が読むことができる。
(http://www.iraqinquiry.org.uk/)

3 だから傀儡政権に?

 イラク開戦前の2003年2月10日、英国の軍事関係者たちは、ラムズフェルド米国防長官が米国内の反対派を抑えイラク攻撃を決めていながらも戦後の復興計画がまったくないために、急遽彼ら自身で計画の青写真をたてることとなる。
 この計画を補佐したティム・クロスはこの時点でイラク側に次の政府を担う組織が皆無であることに気づく。そしてイラク戦争は始まり、英米はイラクに侵攻するが、占領後もイラクには公的な政治指導者は存在しなかったと証言する。
 ティム・クロスは自分たちがイラクの歴史・国の状態をいかに把握していなかったかを知る。ある者の言葉を借りれば「ソケットやプラグはたくさんあるが、どれも接続されていない」。つまりサダム政権が倒れたあとに出てきたのは、サダムに追放されたチャラビ、アラウィなどの亡命政治家であり、イラク・イラン戦争で追われイランへ亡命していたハキム兄弟(シーア派)だった。彼らの共通点といえばサダムに対する憎しみだけである。

 2002年12月のイラク侵攻を決定したロンドン会議においても彼ら亡命政治家たちは自分の利益を主張し互いにののしりあっていたという(「イラク占領」パトリック・コバーン、緑風出版より)。
 ブレア政権の外交アドバイザーであり現駐米大使であるナイジェル・シェインウォルドは、米国がスンニ派とシーア派の内紛を悪化させるだろうと予測していたことを証言する。
 検証委員会の規定では英国政府と共有されている外国(アメリカを指すのだろうか)の資料も調査し、ヒアリング対象は外国当局者にも及ぶことになっている。委員会の調査がこれからどのような展開を見せるか興味深い。

(註1) ブレア前首相の喚問は1月29日に行なわれた。彼は、大量破壊兵器があるなしに関わらず9・11事件以降テロを支援するサダム・フセイン政権を倒す必要があったこと、そして、その選択(イラク攻撃)は間違っていないと「侵略」の正当性を主張する。

(続く)
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by reem-akemi | 2010-02-05 06:45 | 小論
2月1日発行の「市民の意見」にイラク戦争に関する小論を掲載しました。ここに再掲します。この小論では英国のチルコット委員会(イラク戦争を検証する独立調査委員会)のこと、現在イラクが抱える課題についてふれました。

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1 イラク戦争の検証

 「スンニ派急進主義者(註1)、追放されたバース党員(註2)、シーア派原理主義者(註3)との間で内戦が起きることは予測されていたが、これほどの暴力が生まれると知っていたらブレア政権はイラクに侵入しなかっただろう。ムバラク大統領(エジプト)はこの戦争が100人のビンラディン(註4)を生むと警告してきた」。
 現英国情報局秘密情報部の責任者であり2003年英国特使としてバグダッドに駐在し、ブレアの政治顧問も勤めたジョン・サワーは2009年12月19日に開かれたThe Iraq Inquiry(イラク戦争を検証する独立調査委員会)の証人喚問でこのように証言した。

 イラク開戦から6年後の2009年7月30日、英国はThe Iraq Inquiryを設立し、戦争に参加した経緯と軍事関係のすべて、そして占領後の復興支援策などイラク戦争を全面的に振り返るための調査を開始した。これまでも英国はイラク戦争に関連した調査を4回(下院外交特別委員会調査、フットン調査、英国議会防衛特別委員会調査、バトラー調査)行なってきたが、しかしそれらの調査が政府から独立したものでなく、個人の責任(おもにトニー・ブレアに対する)が問われなかったとして、亡くなった兵士の遺族たちは、2005年10月、政府に公的な調査を新たに求めた。

 遺族たちの要求は、一度は政府に拒否されるが、2006年7月27日再審を求める権限が裁判所によって認められ、2007年6月、保守党が「記憶が消え、記録が破られ、文書の追跡が出来なくなる前にイラク戦争の調査を実施するべきだ」と主張して英国議会に法案を提出する。
 一方、イギリスのシンディ・シーハンといわれるローズ・ジェントルは2008年2月英国最高裁判所に「政府は戦争の合法性を説明する独立した調査を行なうべきだ」と要求。それをうけて2008年3月18日、保守党と自由民主党は彼女たちの要求を入れる形で改めて法案を提出した。翌2009年6月15日、ブラウン首相(労働党)はバスラに駐留する軍隊が撤退した後にイラク戦争の調査を行なうと発表。そしてイギリス軍が撤退した7月末委員会は正式に発足する。

 ここにいたった経緯にはジャーナリズムの力が大きく作用した。たとえば2004年3月の防衛特別委員会調査について、イギリス軍の軍備品不足、イラク戦争後の復興計画が皆無であったこと、などを大きく報道し、またイラクにおける大量破壊兵器の存在を調査したバトラー調査では個人の責任が取り上げられてないことを強く非難した。その結果、2008年には国民による政府への圧力は無視できないほど大きくなっていった。

(註1) 原文では「ジハーディスト」。占領に対する抗議をジハード(聖戦)だとする思想あるいは思想の持ち主。
(註2) サダム政権下、バース党は大きな権力を握っていたが、戦後すべてのバース党員が役職から追放された。
(註3) イラク・イラン戦争でイランに逃れたシーア派たち(ハキム兄弟)、および弾圧されていたサドル派(ムクタダ・サドル)などが戦後怨讐を晴らすかのようにスンニ派市民を攻撃する。
(註4) オサマ・ビン・ラディン。サウジアラビア出身。ソ連のアフガン侵攻に対しムジャヒディーン(聖戦士)を組織してソ連と戦う。その後、サウジからの米軍基地の撤退を要求して反米闘争に入る。

                      (続く)
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by reem-akemi | 2010-02-04 06:33 | 小論
06年に書いた小論をアップ。これは「市民の意見」に掲載したものです。

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ブッシュ政権とイラク占領
             
1 経済植民地と化したイラク 
  03年3月20日の侵攻以来、ブッシュ政権がイラクにおいてどのような政策を取ってきたのかを検証してみようと思う。 WHO(世界保健機構)の調査によれば91年(湾岸戦争以前)イラク住民の90%は安全な飲み水を供給されていた。
 この後、10年間の経済封鎖とイラク戦争の結果、04年5月の国連調査によると地方におけるイラク住民の80%が安全でない飲み水を使用し、都市においてはその51%の家庭で未処理のままの下水が道路に流されている。さらに06年1月には下水道網につながっている家庭は3%のみとなった。06年1月米国政府の調査によると、再建のための米国資金93%がすでに使われたにも関わらず上下水道計画は約40%しか完成されていないことが判明した(下水道計画は10件のうち2件が完成)。ちなみに湾岸戦争後、イラク政府は3ヶ月でライフラインの復興をしている。
 なぜこのようなことが起きたのか?それは03年5月ポール・ブレマー(連合国暫定当局行政官)が行った「ブレマー指令」から始まる(彼はその任を解かれるまで100の指令を行う)。
ブレマーは「指令1、2」により12万名の職員、専門家、技術者を解雇し、イラクの非バース党化(バース党員の排除)の過程で50万名の軍事・情報職員を解雇した。次に「指令39」で外国投資家による公共サービスの民営化を促した。この範囲は病院・学校・工場・食糧と農業・水と電気。生活すべてに及ぶ。これはイラクの「再建」につながらず、イラクを「搾取」する結果になった。水のような生活必需品が民営化されることで人々の生活はさらに窮乏を極めるようになる。
 また石油埋蔵量世界第2位の国でありながらサウジアラビアから石油を輸入し、人々はガソリンを求めるために一日行列することになる。これは戦前のイラクでは考えられないことだ。
 「指令80、81」で外国の製造会社と製造品に保護と保証を与えるために、イラクの特許と商標と版権の法律が書き換えられた。これにより種(たね)の交配・保存・分配の権利を持つ農業多国籍企業が保護され、一般農家はイラク原産の農業生産物の種の保存・分配が出来なくなった。また80、81でイラクでの収益をすべて本国に送金することを許可した。
 占領前のイラクでは、政府は大麦や小麦などを固定価格で買い上げ、砂糖や茶など生活必需品を無料で市民に供給していた。ところが「指令12」で、イラクに出入りするあらゆる製品にかかる関税や税を停止し地方経済の保護を一切なくしたため、安い外国製品が多数導入され、地方の生産者は大打撃を受けることになった。
 さらに「指令40」で、外国の銀行がイラクの銀行を100%買収することを可能にした。外国銀行にとって利益とならない地方の銀行は資金の導入もなく、なんの優遇措置も受けないままつぶれていった。
 これらに加え、イラク人に追い討ちをかけたのが、イラク企業を復興事業から排除する「外国企業の内国民待遇」措置であり、さらには米国の請負業者や兵士に対するイラクの法律からの完全免責の適用などだった。
 これを「植民地政策」といわずして何と呼ぼう…。イラクの復興援助というが、ブッシュ政権はたった一年でイラクを米国の植民地にし、イラク経済を徹底的に破壊した。

2 新たな軍事作戦
 04年7月イラクの主権移譲とともに大使として任命されたのが当時国連大使をしていたジョン・ネグロポンテだ。
 ネグロポンテとは如何なる人物か?ネグロポンテの任命については、「ウォールストリート・ジャーナル」4月号でカーラ・アン・ロビンスが大見出しで『現代の植民地提督』と書いた。なぜなら彼はホンジュラスで『殖民地提督』として知られていたからだ。すなわち79年にニカラグァで革命政権が樹立したとき、彼はその政権をつぶすためにホンジュラスで傭兵たちの軍隊―コントラ(死の部隊)を設立、ニカラグァに送った。その結果ニカラグァは内戦状態となり6万人の犠牲者をうみ、経済は壊滅状態に陥った。
 ネグロポンテがイラクに赴任してから5ヵ月後の04年11月、第2次ファルージャの虐殺が始まる。ファルージャは周囲を米海兵隊に囲まれ、15歳から50歳までの成年男子は街から出ることを禁止され、その後数日間にわたる米軍の激しい攻撃を受け、瓦礫の街と化した。
04年12月10日、米CIAとイラク政府は合同の暗殺・拷問特殊部隊を設立した。
(バーレーンのアハバール・アル・ハリージ紙より、以下抜粋)

 「バドル軍(シーア派の有力政党イスラム革命最高評議会の民兵組織)と、ペシュメルガ(クルド人の民兵組織)が武装勢力との対決に失敗したため、米国の治安と軍の諸機関は、イラク人と米国人から成り、法律の縛りを受けないで対ゲリラ戦の実行を任務とする特殊な諜報・軍事作戦部隊の養成に望みを託した。
 この部隊は襲撃や投獄、拷問、殺害を実行するに当たって法を無視することが認められている。フランス治安筋の情報によると、約1年前、米国の戦略家たちが、反米武装勢力が急速にイラクの多方面に拡大していることを認識した時に、この部隊の結成が検討された。戦略家たちは、ベトナムでの体験に基づきこのような特殊部隊の養成を勧告する報告書を米統合参謀本部とホワイトハウスに提出した。フィンサン・カネストラロCIAテロ撲滅室室長補佐は、現在イラクにこのような部隊が存在すると臆面も無く認めている。
 米国の軍事専門家たちは、『アルジェリア解放戦争でのテロリストに対するフランス特殊部隊や、パレスチナ人によるテロ撲滅のためにモサドが養成したイスラエル特殊部隊の手法を活用する切実な必要性がある』と観ている。ラテンアメリカでの対共産勢力戦争における米国殺し屋部隊の方式によって、イラク、米国特殊部隊は行動する。」


 私はこの文章の意味を当時正確に把握していなかった。残念なのは、いまだに日本のメディアおよびジャーナリスト諸氏が正確にこのことを認識していないことだ。以前より私はイラクが「内戦状態」にあるのではなく、なんらかの組織が計画的に破壊活動をしていると考えていたが、今回この報道をみつけて改めてその認識を強くした。「内戦状態」を装うことが米政府の戦略なだ。
  05年バグダッドの街に拷問死体が打ち捨てられるようになり、それ以降、襲撃・殺人・誘拐・爆発等、ありとあらゆる犯罪がバグダッドを中心にした都市で繰り広げられるようになった。現在、この犯罪を行っているのはサドル派のマフディー軍(シーア派)といわれている。しかし、それとは別に「暗殺団」がいるのは確かで、彼らが米軍基地を出入りしているという目撃情報も流れている。
日本の報道で恐ろしいのは、これら暴力行為と反占領のレジスタンス活動をすべて「テロ」としていることだ。  日本のマスコミは民衆の「抵抗運動」をいつから「テロ」と呼ぶようになったのだろうか?バグダッドで行われている破壊活動とレジスタンス活動はその対象が違うにも関わらず、すべて「テロ」と名指しし、その背景に言及しないのはジャーナリストの怠慢としか言いようがない。

3 さらなる破壊の予兆―サダム・フセインの処刑
 06年12月30日早朝、イスラム教の大事な宗教行事である犠牲祭の初日にサダム・フセインは絞首刑になり69歳の生涯を閉じた。これについて、イスラム教徒から平和を願うイード(犠牲祭)での処刑はイスラム教への冒涜だとして批判が続出した。(1月3日アル・ジャジーラのアンケートより)
 さらに、イラクの法律では判決確定の30日以降に刑の執行を行うことになっているが、サダムについては死刑確定のわずか4日後に執行された。執行時期に関して、イラク司法当局は早期執行に難色を示し、イラク大統領タラバーニも執行のサインを拒絶した。強行したのはマリキ首相だ。
マリキは米大使館と話し合いの末、30日早朝に執行を決定した。これに関し、1月2日、米国は執行時期を延期するように進言したが、すべてはイラク政府が決定したことであると発表している。しかし、サダム・フセインの裁判がすべて米国の政治的判断のもとで行われていたことは世界中が知っている。死刑判決は米中間選挙前の11月に出ていたのだ。
 処刑当日、申し合わせたようにバグダッドでは爆発事件が続出した。サダム・フセインの処刑が宗派対立をさらに深めたと報道されたがそうだろうか?イラク人にとって彼は過去の人間でしかない。もし怒りを持っていたとしたら占領に対する怒りに他ならない。イラク人(スンニ派)を怒らせ戦わせるのも3年間行ってきた常套手段だ。しかし、私にはそれも米国の戦略のひとつに思える。イラクが混乱していると見えれば見えるほどイラクへの増派はしやすくなり、たとえ失敗して撤退したとしても米国世論への言い訳にもなる。イラクはどうしようもない国だと。
 イラクの反占領抵抗運動はさらに広がるだろう。マスコミが宗派対立だといくら煽っても米兵の死が宗派対立による死でないことは明らかだ。彼らの多くはアンバール州における抵抗軍の攻撃で亡くなっているのだから。私たちはマスコミの報道のままに「宗派対立」という言葉に踊らされてはならない。
 サダム・フセインは独裁者として圧制を強いていたが彼は最後に強烈なメッセージをイラク国民に残した。私は彼の「憎悪するなかれ」という言葉にイラクの希望を見出す。

私が皆さんに憎悪するなかれと呼びかけるのは、
憎悪は人が公正であることを妨げ、
憎悪は皆さんを盲目にして思考する道を閉ざし、
バランスのとれた思考と正しい選択をさせなくするからである。

私はまた皆さんに私たちを攻撃した諸国の国民を憎むことなく、
政策決定者と国民を区別することを呼びかける。
皆さんは、侵略国民の中にも侵略に反対する皆さんの戦いを支持する者がいること、
そのなかのある者はサダム・フセインを含む拘束者の法的弁護活動を
志願したことを知っておくべきである。

誠実な国民の皆さん。 私は皆さんに別れを告げるが、
私は慈悲深き神とともにあり、神は避難を求める人々を支援し、
誠実で正直な信徒を決して裏切ることはない。

神は偉大なり。神は偉大なり。
イラク国民万歳。戦い続ける偉大なる国民万歳。
 イラク万歳、イラク万歳。
パレスチナ万歳。
聖戦と聖戦をたたかう戦士万歳。

サダム・フセイン

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by reem-akemi | 2009-09-23 22:35 | 小論

ガザの占領を考える

市民の意見(113号)に掲載した小論です。
           
・ナクバ(大災厄)
 ガザの問題を考える前に私たちはイスラエル建国の歴史をたどる必要があるだろう。1948年2月イスラエル建国を前にしてユダヤ人指導者はパレスチナ人の追放を計画、手始めに地中海沿岸の5つの村を排除した。イギリスは治安維持の責任があったにも関わらず、パレスチナ人たちがトラックに乗せられて国境の外に追放されるのを黙認した。その後、彼らは全体を12の地域に分割して軍隊を配備、各地域の町や村のリストを持たせ効率よくパレスチナ人を排除していった。こうしてイスラエル建国の前にすでに35万人のパレスチナ人が故郷から追放された。そして、残りの人びとを追放するために彼らは戦争を利用した。すなわち戦争はパレスチナ人を民族浄化するための手段だった。
 建国後、500の村と11の町が破壊され、100万人のパレスチナ人が難民となった。追放を拒絶したパレスチナ人に対しては虐殺、レイプ、略奪、投獄が行なわれ、投獄ののち強制労働収容所へ送りこまれた。かつてナチスによって行なわれた異民族の排除をユダヤ人指導者は国際社会の見ている前で平然と行なった。そして誰もがそれを見つつも沈黙していた。何が起こっているのかを報告したものはプロパガンダとして扱われ、反ユダヤのレッテルを貼られた。ホロコーストはイスラエルの罪を隠蔽する大きな役割を果たしたのだろうか。1948年はパレスチナにとってはナクバであるが、イスラエルにとってはイスラエル帝国建設の第一歩だ。「帝国」は領土を拡大することを国是としている。

 
・生存不可能な場所―ガザ
 パレスチナを追われた人びとの一部は当時エジプト領であるガザにたどりついた。ガザは種子島ほどの土地に150万人が住み、人口密度は世界一といわれ、ジャバルヤ難民キャンプだけで1平方キロあたり7万4千人(東京都区内の人口密度は1万3千人)が住んでいる。出生率も高く、一人の女性から5~6人の子どもが生まれる。したがって毎年人口が3~5%増加する。人口の50%は15歳以下の子どもたちだ。また、08年の国連の食糧支援は18万2400家族に及び、80%の住民が国連の援助なしでは生活出来ない。ガザは住民が生存不可能な地域の初めてのケースといわれている。

 だがこの絶望的な貧困はイスラエルの占領政策と大きな関係がある。05年6月、ガザで唯一の発電所がイスラエルの攻撃により破壊された。この発電所はガザ地区の45%の電力を担っていた。この攻撃は生活そのものを破壊する要因となったので、イスラエルの人権擁護団体ベツセレムはこれを国際法違反だとして告発している。同じ年、イスラエル・シャロン首相によるガザの「一方的撤退」が行なわれ、国際社会は非常に評価したが、さらなる貧困に人びとを追いやった。ガザ北部にイスラエルが67年の占領開始後すぐにつくった工業団地がある。そこで大量のパレスチナ人労働者を低賃金で雇い入れ、経済的にガザ地区をコントロールしてきたが、05年のガザ撤退と同時に同工業団地を放棄、大量の失業者をだした。その上で、国境を封鎖して物流を止めた。しかも国際社会はガザからイスラエルが撤退したのだからパレスチナ国家の建設はパレスチナ自身の責任であるとした。が、シャロンが中心となって策定した「ガザ撤退案」(Disengagement Plan)では、制空権・制海権はイスラエルが掌握し、国境はイスラエルの管轄となっている。しかもガザの人びとが支払う税金はパレスチナ当局が徴収しイスラエルに渡る。これが「自治」だろうか。

 08年11月4日、イスラエルはハマスとの停戦協定を破り、これまでにないほどの攻撃をしかけてきた。翌 11月5日から、イスラエルはガザ地区に入るすべての検問所を封鎖し、食糧・医療品・燃料・調理ガス・水道および衛生設備の部品などなどの供給を大幅にカットした。すべて、あらかじめ計画されたものとしか言いようがない。同年12月27日、陸・海・空からの総攻撃で、23の病院、60の学校が破壊され、4000家族が散り散りになり、被害は21億ドルといわれている。米ハーバード大学中東研究所のサラ・ロイ氏は「ハマスを叩くことが攻撃の目的ではない。パレスチナの抵抗精神への攻撃だ」とし、「占領を終えることがもっとも重要。もしこのまま占領を続けるならさらなる暴力に向かうだろう」と言う。


・西岸では土地の細分化が進む
 一方、ファタハが実権を握る西岸地区に目を転じると、パレスチナ人の土地は細分化され、国家としての経済活動を維持できないほど切れ切れにされてしまった。ユダヤ人の入植地はオスロ合意後さらに増え続け、通りの名前もユダヤ風に改められ、パレスチナ人が存在していたことさえ消し去ろうとしている。
 前述のガザ撤退案では、「①西岸に高さ9メートル、長さ620キロメートルの壁を建設。②40万人のユダヤ人入植者のために400キロの高速道路を建設。③東エルサレムを孤立させ、西岸地区とガザ地区を分離」とあり、①の壁の建設により隔離されたパレスチナ人は12%から54%に増える。
 つまりガザ撤退案は西岸地区とエルサレムをイスラエルに統合し、ガザを監獄にするための足がかりだったのだ。1933年のオスロ合意以降、イスラエルはもちろんアッバス議長(ファタハ)も「占領」という言葉を使わない。「自治政府」になったからというのが理由だが、イスラエルの「管理」はより強化され、実態は「自治」からかけ離れたものになっている。

 イスラエルが自らの野望のためにパレスチナの人びとに強いる植民地政策と民族浄化に私たちは加担してはならない。前述のサラ・ロイ氏は、パレスチナにおけるイスラエルの「管理」が明らかになる方向での国際援助が必要だと言う。日本政府はすでにガザ復興支援で2億ドル(195億円)の拠出を表明しているが、その援助のあり方が問われている。
 
参考文献
・イラン・パベ 「イラン・パペ、パレスチナを語る」
・小田切拓 「和平プロセスが、平和を遠ざける」(世界 2008.10.)
・Sara Roy氏のサイト http://www.lrb.co.uk/v31/n01/roy_01_.html
 
 
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by reem-akemi | 2009-04-07 16:28 | 小論
2006年09月12日

・経済的弱者の政治手段としてのテロ

 テロリズムが、心理的威嚇や恐怖心を引き起こすことで一定の政治的効果をもたらすことを目的として行われる暴力行為であるとするなら、アメリカ政府が考えた「テロ戦争」は世界の人々を恐怖に陥れることに成功し、世界の警察としてのアメリカの立場を強固なものにしたかもしれない。

 一方、各国・地域および大国の思惑など、貧困からくる経済問題を背景として、追い出された土地あるいは失われた民族・宗教のアイデンティティを取り戻すための政治的手段としてテロが存在するのも確かなことである。すなわち、絶対的貧困と非人間的な生活状況のなかで生きる人びとの「富めるもの」への憎悪がなせる行為としてテロが存在する。

 今、世界で28億人もの人びとが一日2ドル以下で生活することをよぎなくされているが、こうした人びとには、食糧・栄養・清潔な飲料水・病院・住宅など、人間が生きるために最低限必要なものすら与えられておらず、紛争・自然災害・政治経済不安が彼らの生活をさらに悪化させている。

 暴力の温床はこのような不安定な場所から生まれやすい。若者は生きることに絶望し、テロリストたちからのリクルートに容易に乗る。そのようにして自爆テロに自らの命を差し出した若者がどれだけ多いか…。しかし、そのような状況でテロを助長しているのもまた先進国の軍需産業―死の商人たちーであることも忘れてはならない。

 問題は、彼らのように生存を脅かされた人たちが国家をゆるがすほどの暴力性を持つかどうか。たとえ持ったとしても、その暴力を封じ込めるために彼らにミサイルを撃ち込んだり、ひとつの国を破壊することに正当性があるかどうか。

・対テロ戦争で何が残ったか?

 イラク占領から3年。テロリストはいなくなったか?世界は安全になっただろうか?

 否(いな)。イラクに関していえば、この戦争で莫大な利益をあげたのは復興資金を水増し請求して大儲けをしたハリバートンを代表とする一部アメリカ企業、軍産複合体だ。イラクでの経済復興はライフラインを始めとしてなんら改善することなく、復興資金の多くは治安維持のために供与され、失業問題は2003年以来人々の不安材料となっている。
 占領に耐えられなくなったイラク市民は難民化して近隣諸国に避難し、残ったものたちはイスラム急進主義者たちによってそれぞれの宗派に分離させられた。
 いまや、イラクは確実に米英が望むような連邦制への道を歩き始めている。もし、それがこの戦争の最大目標であるとするなら、かなりの確立で達成できたといえよう。

 しかし、米軍に家族を殺されたものは復讐のためにレジスタンスになり、イラク人を殺せば殺すほどレジスタンスは増えていくことになった。それは30年前にベトナム戦争で経験済みのことではないか…。
 レジスタンスによる米軍への攻撃は日ごとに激しさを増し米兵の死者数はすでに2600名を越えた(イラク民間人の犠牲者は10万人とも言われている)。

 そして、アフガニスタンに関していえば、2005年イラクにいたイスラム原理主義者たちがアフガニスタンに入り、タリバーン、地元の軍閥などと一緒に米軍に対する攻撃を始めた。静まっていた戦火が再び激しさをましてきた。

 非対称であったはずの戦争が、地上戦になると、家族を殺された人々が戦士になることでいつの間にか逆転している。イスラム戦士の数は増えることはあっても減ることはない。2001年に始まった「対テロ戦争」はますます泥沼化する。 

 そもそも「非対称戦争」に正義があるという理屈こそ大きな欺瞞であり、私たちはそのウソに陥ってはならなかったのだ。落ちたミサイルの先にいるのはテロリストではなく無辜の市民たち。圧倒的な国家の暴力に殺されていく非力な市民たちだ。

 そして、国家の前に非力なのは私たちも同じで、彼らは実は私たち自身の姿でもある…。
 テロの脅威という新手の対立軸は、実は脅威にもなんにもならない小さな暴力であったはずが、国家の暴力というエネルギーを与えられたことによって脅威が拡散した。私たちはいまやこの暴力をどのように鎮めるかに苦慮している。 

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以上「武力で平和は創れない」への寄稿に加筆・訂正を加えたものをアップしました。            
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by reem-akemi | 2006-09-12 00:20 | 小論
2006年09月11日

・「対テロ戦争」という非対称戦争

2001年9月11日に米国で起きた同時多発「テロ」攻撃に対し、米国ブッシュ大統領は、「対テロ戦争」を宣言した。そのときから「テロ」という国家の枠組みを超越した非国家集団の暴力行為が国家の安全を損なう「脅威」として新たに防衛戦略上の対象となった。それはこれまでの国民国家における戦争概念を覆すものであった。

宗教や民族問題に起因する非国家集団(テロリスト)への対処は、脅威自体が国家を対象としていないことから、アメリカを中心とした西欧諸国は国家を超えた共同行動が必要だと軍事同盟の強化を狙う。が、そもそも国家と非国家集団の軍事力の違いの大きさ、非対称性を考えたとき、いかにそれが突飛な理屈であるかがわかるはずだ。

2003年3月20日、米国はイラクが「大量破壊兵器」を所有し、「テロリスト」たちを支援する国家としてサダム・フセイン政権打倒のために「イラク戦争」を開始した。
ここに見られるのは、世界第一位を誇る米国の軍事力と10年間の経済封鎖にあえぐイラクの非対称性である。その後、「大量破壊兵器」は見つからないまま、2005年ブッシュ大統領自身が「大量破壊兵器」はなかったと発表するにいたる。「大量破壊兵器」に代わって登場したのが「テロリストーザルカウィ」だ。

2004年11月、ザルカウィをかくまっているという理由でイラクの小都市ファルージャ(バグダッドの西、人口30万人)を攻撃、破壊。ファルージャは瓦礫の街と化した(2004年11月以降、イラク人にとってファルージャは抵抗の象徴となる)。

では、なぜこのような非対称の戦争が正当性を持つのか?それは映像を通して暴力の恐怖を人々に与えることに成功したからだ。世界貿易センタービルが粉々に砕け散る悲劇はテレビ画面を通して世界中に流れた。飛行機が高層ビルに突っ込むという図は映画の世界のことであるが、ハリウッド製ではなく本物のビルが崩れ落ちる迫力は人々を恐怖の渦に巻き込むには十分だった。すなわち、「テロ」の恐怖を人々に植え付けるにはこれほど衝撃的なものはなかった。
そして、このときから映像による情報戦は始まっていた。

私たちは家庭にいながらにして「テロの恐怖」を観ることが出来たが、私たちが目にするものが決して真実とは限らない。

さらにイラクでの外国人の斬首映像は、イスラム過激派を恐ろしいテロリストとみなすには十分な効果を持ち、各国NGOは撤退を余儀なくさせられた。反面、米軍がファルージャで行なった殺戮は外部のジャーナリスト・各国NGOを締め出すことにより、その悲惨さがすぐに世界に流れることはなかった。半年ほどたってイラク民衆、一部の米兵、フリーランスのジャーナリストたちによってジェノサイドとも言える惨状が伝えられてきたが、大手メディアはこれを無視した(扱いはごく小さな記事であり、いつも米軍側からの報道が多い)。

このように、私たちは報道されない暴力に目をつぶることにより、結果的には国家と非国家集団および国家間の軍事バランスを見落とすことになった。
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by reem-akemi | 2006-09-11 00:50 | 小論