毎日思うこと、感じることを日々の時間(とき)の中で綴ります


by reem-akemi
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カテゴリ:NewYork( 12 )

ハリド解放!!

2005年07月24日

イラクの秘密警察に拘束されていたハリド・ジャラール(ラエドの弟)が解放された。
本当に良かった!だが、イラクの多くの拘置所では無実の罪で拘束されたままの人が数千人はいる。

虐待で有名になったアブグレイブ刑務所は数多ある刑務所のほんの一例に過ぎない。

今回の解放は国際的な圧力の結果かも知れない。多くの人が解放の署名にサインをしたから。
でも、そんな力のない人たちはどうなるのだろう。。。同じように私たちは関わっていかなければならないと思う。

今日、ハリドの母ーファイザのブログは喜びと安堵に満ちていた。23日にバグダッドを出発したハリドは24日、無事にアンマンに到着。
以下はファイザのブログよりの転載
(翻訳は池田真里さん)

2005年7月24日日曜日

 おはようございます。
 いま午前11時、ハリドは眠っています。とても疲れています。12日間というものよく眠れなかったのですから。
 昨夜、私はよく眠れませんでした。あの12日が終わったというのに。
まだ牢獄に入れられていて拷問や虐待を受けている気の毒なイラクの人々のことを思い続けていたのです。そしてその家族は誰も、家族の一員がどこにいるのか、どうして捕らわれなければならなかったのか、知らないのです。
 いまイラクではなんと恐ろしい日々が続いていることでしょう。
 力をあわせ、捕らわれている人々を助け、その人権を守る方法を見つけねばなりません。
 イラクはもはやサッダーム・フセインの治世ではありません。自由と民主主義の時代のはずです。
 行動を起こさなければ・・・

ファイザ
午前11時56分 
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by reem-akemi | 2005-07-24 23:14 | NewYork

ニューヨーク まとめ

2005年06月27日

帰国して1ヶ月。何が自分に残ったのかを毎日考えている。人間関係?そうね、それもあった。

1995年に北京へ行って戦争責任の問題を突きつけられてから10年、ニューヨークへ行って私の戦争の旅が終わったことを予感した。生意気にも見るべきものはすべて見たような気がしていた。
この間、アウシュビッツ、ベトナム、アフガン、イラク、沖縄に行き戦争の跡を私なりに見、戦争が残したものは何か?そして戦争の傷を回復するにはどうしたらよいのかと模索し続けた。

若いときから一番関心のあったことは、人は絶望の淵からからどのようによみがえるのかということだった。絶望の中で人間らしく生きていくにはどうすればいいのか、そんなことばかり考えていた。

中学生のときに「俊寛」の話を読んだのがきっかけかもしれない。もし自分が離島に流されたら一体どのように生きるだろう。私には俊寛の孤独と哀しみが恐ろしかった。想像ばかりしていたから周囲はヘンな子どもと思ったに違いない。

戦跡をめぐることは恐ろしい。なぜそんな目にあわなければならないのか。「理不尽」と「不条理」がいつもつきまとう。それに加えて「迫害」と「差別」をも傷ついた人々に襲い掛かる。
アフガンで見たものは、その4つがすべて同時進行する女性たちの姿だ。

私はいつの間にかアメリカを憎んでいたのかもしれない。60年間他の国を侵略し、殺し続けるアメリカという国を恨んでいたのかもしれない。

でも、ニューヨークに行って、劣化ウランがアメリカ内部の深刻な問題だと知ったとき憎しみが解けたような気がした。なぁーんだ同じじゃない・・・。

なぜか、もうどこも行きたくなかった。

私は10年たって自分の生活を振り返ってみた。「生活者」としてバランスの悪い自分がいた。グルッと回って元に戻ってきた感じがした。

もしかしたら、戦争の旅で得た最大の成果は、平凡ではあるけれど、「日常」が何よりも大切だと知ったことかもしれない。
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by reem-akemi | 2005-06-27 18:35 | NewYork
2005年06月23日
5月20日、ニュースクールの展示が終わってタイムズスクエアにかけつける。

すでにリクルートセンターの前には大勢の人がいた。ここからどこへ向かってデモに行くのだろうかという疑問はすぐに解けた。
リクルートセンターの前を皆でグルグルと回るのだ。こんなデモは初めて!

50人くらいの人たちがそれぞれバナーを持ってグルグル回る。これが結構目立つ。通りにいる人たちはじっとこちらを見ている。

ピンクの迷彩服のお姉さんがやたらと元気が良い。

デモは学校からリクルーターを追い出そうというものだった。兵士が不足しているアメリカでは高校に米軍のリクルーターが出入りして、まるで就職のように兵士を採用している(命をかけた仕事だ)。
生徒の個人情報がすべて軍に行っているとの情報もある。

というわけで、バナーもそんな具合だ。
「私たちの息子はイラクで人を殺さない」なんて。

やっぱり自分の言葉でデモをしたいので伊藤さんにニュースクールにあるイラクの写真を持ってきてもらう。

1時間ほどたってから写真が到着。イラクの医師が撮った劣化ウランの体内被曝により生まれた子どもたちの写真ー鼻がふくらんだり、目が飛び出たり、おそらく多くのアメリカ人が知らないであろう劣化ウランの被害ーを掲げて歩くことにした。

そこへ一人のヨルダン人が声をかけてきた。
「もっと目立つところでやろう」
私を横断歩道のところへ連れていく。
「疲れたら代わるから」とウインクをした。

三角州の横断歩道は通りに行くために多くの人が信号待ちをしている。
そこへズラッと皆で劣化ウランの子どもたちの写真を掲げた。
写真を見る人々の顔!凝視する目、目、目。

目の前にいた警官がウンザリした顔で目をそむけた。でも、彼は制止することなく黙っていた。

信号が青になるたびに人が入れ替わり、凝視する目がたくさん私たちの写真に集まった。

一人の中年の女性が「あんたたち良い仕事してるわね。私も手伝っていい?」と聞いてきた。
もちろん!
女性は写真の前に立ち、大きな声で劣化ウランの説明を始めた。
「これはアメリカ軍の化学兵器の結果なのよ」

うわぁ、素晴らしい!
後ろではベトナム帰還兵なども混じり
「Iraq for Iraqi!」(イラクはイラク人のもの)
などと言っている。
久しぶりにエキサイティングな時間だ。

通りを歩いていた紳士がデモに参加する。

タイムズスクエアは9・11のあと、亡くなった人たちの名前が掲示されていた場所だ。その意味でもここでデモをするのは大切なことなのだ。

グラフトンの妙法寺の尼さんは今回も国連前で一日中、平和を祈って勤行をしているが、9・11のあとやはりここで祈っていた。気がついたら彼女の後ろにたくさんの人が座って、やはり同じように祈りを捧げていたという。

平和、祈り、平和・・・。
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by reem-akemi | 2005-06-23 23:55 | NewYork
2005年06月18日
写真展ーニュースクール3写真展はニュースクールのほかにユニオンスクエアでも行うことにしました。
ニュースクールだけでは展示しきれないし、提供した人たちの気持ちを思うと展示しないわけには行かないというのが私の正直な気持ちでした。

ニュースクールではとりあえず森住卓さんというアメリカでもメジャーな写真、それに相対する佐藤好美さんのhappyなイラクの子どもたちの写真を持ってきました。

それは高遠さんの気持ちとは大きくずれていたようです。それも私にはよくわかっていました。

でも、アメリカという土地で人々がどのような反応を示すのか、まったくわからなかったというのが正直な気持ちです。準備不足といわれればそれまでなのですが・・・。
が、写真展を終わってみて、思うことはアメリカ人の(ニューヨーカーの)許容量の大きさです。

真紀さんは「イラクに自衛隊を送っている日本人が何を言うのか?」という反応があるのではないかと言いました。でも、それは私たちの意識過剰でした。「日本人」に拘る必要などなにもないのです。

大切なことは真実を知ること。誰が伝えるかというのは二次的なことです。だからこそ、「バグダッド・バーニング」がブロードウェイで上演されるのです。

たった数ヶ月での滞在ではアメリカを知ることは無理だと思いました。そう、アメリカの側面を見ているだけ。推測は無用。やってみるのが一番!

そうそうチラシの裏にはイラクの青年のメールを貼り付けましたが、結果的には彼のメールの力は大きかったといわざるを得ません。チラシを読んで、展示会場へ戻ってくる人が何人かいましたから。。。

これを貼り付けるについては、ある人が「そんなのつけなくてもいいんじゃない?」と言ってきました。正直、私は自分の耳を疑いました。
メジャーだからやる。メジャーでないものはやらない。信じられない言葉です。なんのための活動?
嫌だなぁと思った瞬間です。

ひとつのことをするにはいろいろなことがあります。
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by reem-akemi | 2005-06-18 00:02 | NewYork
2005年06月17日
写真展ーニュースクール2ニュースクールの続き。

ニュースクールはユニオンスクエアのそば。かのハンナ・アーレントが戦後、ここで政治哲学を教えていた。ハンナ・アーレントがいたというだけで私はドキドキ。

ニュースクールを紹介してくれたのはIACにも関わっているフィリピンの女性。ものすごいフィリピンなまりで時々聞き取れないことがあった(ただでさえリスニングが苦手な私にはメチャ嫌な相手)。しかもこの人、私が一度で聞き取れないと露骨に「あんたに言っても仕様がないわ」という態度に出る。
「Kazukoに言うわ」
そこだけはしっかりと聞きとれる。

でも、聞き取れるととても優しい。なんだい、それ!

ギャラリーはエスカレーターの脇のフロア。ガラスのショーケースが3面。最初はこのフロアを全部貸してくれそうな話だったのが結局このケースだけだった。
写真はピンでとめてね。OK,OK.

チラシは英文で作成。でも、ちょっと心配だったのでネイティブに直してもらう。
あらあら、まったく違ったものになった。

彼女「私、アメリカ人向けにちょっと直しました」

いいえ、全然違います。発想がまったく逆であることを知りました。

彼女「チラシはわかりやすくね。私、秘書をしていました。その経験90%使いました」
ーちなみに全部、日本語です。

彼女「わぉ!素敵なチラシ出来ました!!」
(それを日本語では自画自賛というのです)

出来たチラシはキンコーズでプリントアウト。
ニュースクールへ持っていきました。
A3に拡大したものはポスターにしてロビーに。
親切な警備員さんが全部やってくれました。

さて、あとは日本からイホネットの皆がくるのを待つばかり。

続きは明日。
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by reem-akemi | 2005-06-17 00:43 | NewYork

写真展ーニュースクール

2005年06月15日
写真展ーニュースクール今年の念頭の計画は「アメリカとイラクをつなげる」こと。具体的に書くとニューヨークでイラク写真展をすることだった。

1月、私が所属するイラク関係者の集まりーイラク・ホープネットにその企画を提案した。一方、ニューヨークに留学している伊藤和子弁護士に無料でニューヨーク大学で写真展を開けないかと打診してみた。彼女からはとにかく企画書を送ってくれということで英文の企画書を友人の助けを借りて作成。

また、ニューヨークでいろいろな企画を行っている日本人のWさんに企画を送り、その可能性を図ってみたところ、その返事は冷たかった。
「マイケル・ムーアの華氏911くらいのことはニューヨーカーなら知っています。やるのなら保守的な田舎でやることを薦めます。と言っても、私はそのコネがありませんが」

写真展の実現はなかなか進まなかった。

伊藤さんからどうせやるならNPT会議のある5月頃がいいのではないかとメールが来た。その頃なら世界中から多くのNGOが来るからたくさんの人に見てもらうことができる。
2ヶ月ほどだって、ニュースクールのギャラリーを借りることが出来そうだという連絡が来て、計画は少しずつ実現に向けて歩みだした。

イラク・ホープネットでも高遠さんが賛同してくれ、いくらかの反対はあったもののイラク・ホープネットとして取り組むことになった。写真は九州で写真展を行っていた大平君の写真を借りることになり4月になるとその作業で忙しい日々を迎えることになった。その他、JVCの白血病の子どもたちが描いた絵、そしてPEACE ONが所蔵するイラク・モダンアートも展示することになった。そうそう、森住卓さんと佐藤好美さん、桑原茂さんの写真を忘れてはいけないわ。およそ100枚近い写真が集まった。

当初、高遠さんと一緒に5月中旬に行く予定にしていたが、5月はじめに平和市長会議、セントラルパークの大規模のデモがあったりするので急遽、4月25日に渡米することにした。

実はアメリカは初めてだった。警備の厳しさを覚悟して飛行機に乗ったら思いのほか、なんということもなく入国できた。

アメリカ人にイラクのことを知ってもらいたい。
私はその思いでいっぱいだった。
4月26日、およそ1ヶ月にわたるアメリカ生活が始まった。
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by reem-akemi | 2005-06-15 23:22 | NewYork
今日はcatskillのことを書く。日本で言えば「軽井沢」?でも、もっと緑がきれいに整備されているかも知れない。自然が上手に残されていると言ったほうが正解かなぁ。。。

ジェインはcatskillにふとっちょネコと住んでいる。1階は暖炉のあるリビングと清潔な台所。2階はPCの設置してある仕事場と寝室が2つ。そして広いバスルーム。どの部屋も彼女のセンスの良さを感じさせる。
朝、パウンドケーキを焼いている匂いで目が覚めた。階下に下りるとジェインはニコリと笑って「コーヒー?それとも紅茶?」「コーヒーがいいわ」「OK」
朝食は全粒粉のパウンドケーキにフルーツを入れたヨーグルト、それにコーヒー。ちょっとおやつみたいな朝食。

彼女はイタリア系アメリカ人。そしてWomen in Blackのメンバー。Women in Blackはイスラエルから生まれた女性の反戦運動。常に黒衣をまとい反戦の意思を表している。

Women in Blackといえば、ユニオンスクエアで毎週木曜日にデモンストレーションをしている日本女性もいる。女性の反戦運動では大きな位置を占めるものであることは間違いないが、男性の参加を拒否しているわけでもないようだ。

要はフェミニズムの視点で行動をしているということ。日本でジェンダーに対する政府のあらゆる面での否定が始まったことに比べてこの違いは何なのだろう・・・。ジェンダーとかフェミニズムの考え方が社会の中にしっかりと根付いている。

海外に行くとついつい日本と比較してしまう。

朝食を取っているとジェインが急に立ち上がった。
「ちょっと待っていて」
持ってきたのは1冊の本。
「チェルノブイリの本なのだけど、これ読んだ?私、これを読んで大きな衝撃を受けたわ」

あぁ、彼女の劣化ウラン問題での活動はこれが始まりなのね。

ヒロシマーチェルノブイリーアフガンーイラク。
アフガンへ行ったことを話した私に、
「アフガンの人は私たちを憎んでいるでしょ?」
と聞いてきた。
「アフガンはあまりに貧しくてソ連との戦いのあとがいまだに残っている。クラスター爆弾のために手や足をなくした人がたくさんいるのよ」
続けて、
「もしかしたらアメリカよりソ連を憎んでいるかもしれない」

本当であり、本当でない話。大国のエゴが生んだ悲劇であることに間違いない。

私はアメリカという国で素敵な人に出会ったことに感謝したい。国境なんてあってないようなもの。

写真は森の中のジェインの家。
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by reem-akemi | 2005-06-15 00:52 | NewYork

ウッドストック

2005年06月14日
ウッドストックニューヨーク北部、ウッドストックは35年前、伝説的な場所となった。ヒッピーと呼ばれる若者が音楽を楽しみ、自由を楽しみ、ベトナム戦争に反対して集まったからだ。

ジョアンとの出会いは彼女が「私、ウッドストックなの。ウッドストックって知っている?」と若い女性たちに話しかけているのを聞いたことから。
思わず「私、よ~く知っている!」と叫びました。
「あの、ウッドストックでしょ?」
「ええ。あのウッドストック!」
すっかり意気投合。

ジョアンは幼稚園の先生をしていました。それを聞いた真紀さんはぜひ彼女の勤めていた幼稚園に行って子どもたちと交流したいと希望した。真紀さんはイラクの子どもたちのことを話して、その印象をそれぞれの地域の子どもたちに描いてもらっている。アメリカの子どもたちがイラクの白血病の子どもたちのことを知ってどう思ったかを知りたかったのだ。

数日後、私たちは彼女が勤めていたウッドストック学校を訪れた。そこはヒッピーが自分の子どもたちのために建てた学校。自由と芸術にあふれた学校だった。プレ幼稚園、幼稚園、小学校、中学校、高校が併設され、広大な丘の上にそれぞれの校舎がおもいおもいのスタイルで建っていた。
全部あわせても生徒数200名の小さい学校だ。

ジョアンが校舎に近づくと小学校棟から子どもたちが走りよってきて抱きついた。
「ジョア~ン!」
次々と子どもが寄ってくる。と、次は学校の教師仲間が「ジョア~ン!」とやはり近づいてきた。

彼女は私たちを紹介した。
「彼らは日本から来た私の友達」
その日、私たちは小学校と高校の教室を訪れる予定にしていた。

まず小学校の教室。小さな20の目が興味深々で私たちを見つめている。
ジョアンはまず劣化ウランの説明を始めた。体内被曝のことまで。
それから白血病で亡くなった子どもたちの絵を広げた。幾人かの子どもたちがキノコの絵を描く。キノコは原爆の象徴らしい。
中にはインターネットでダウンロードした写真を絵に貼り付けた子どももいる。いかにもアメリカ的!

絵を描いたあとは、即席日本語教室。これもジョアンの考えたこと。
『日本語でなんというの?』。子どもたちはいろいろな言葉を聞いてきた。ちょっと気楽で楽しい時間。

お昼休みのあとは高校生との交流。私たちのまわりを25人の高校生が囲んだ。ここでもジョアンは劣化ウランの話をした。支援のことも語られる。生徒の中にイスラエルから来たという若者もいた。

音楽室の壁には大きな大きなジョン・レノンの写真があった。

帰りにジョアンが尋ねてきた。
「私のコーディネートはどうだった?」
「パーフェクトよ」

お茶を飲みながら私は彼女にそっと言った。
「ジョアン、生徒たちが貴女を尊敬していることがよくわかった。あなたは素晴らしい先生だわ」
「いいえ、彼らは私を信じているの。私は一所懸命やってきただけ」

ジョアン、貴女素敵よ♪
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by reem-akemi | 2005-06-14 00:46 | NewYork

アメリカのDU被害者

2005年06月08日

今日はアメリカのDU被害者として政府に告訴をしている帰還米兵のことを書く。

彼はもうすっかり日本のマスコミには有名になってしまった感がある。生まれてきた娘の指がなかったことでアメリカの新聞にも載った帰還米兵、マシューである。
彼はニューヨーク州兵として2003年イラク戦争に参加。3月のイラクの砂嵐は米兵たちをも蝕んだ。イラク戦車にぶち込まれた劣化ウランの放射能は砂嵐とともに彼らの体の中にも入ったのだ。
除隊後、生まれてきた娘の手に指がなかった。
それだけでなく、彼の言葉によると「薬屋が出来るほど薬をたくさんもらった」。だが、健康は日々悪化していく。

彼は兵士としてなんら安全に対する準備がなされていなかったと政府を告発している。

DUの被害は米国内部の問題であるとも私には見える。決してイラクだけのことではない。

ニューヨークの北部、オーバニーにDU製造工場跡があるが、今、その土を入れ替える作業をしている。かつてその工場からは放射能を含んだ煙が毎日排出され、地域では白血病の子どもたちが生まれた。
汚染された土は、アイダホに廃棄されるという。

放射能汚染がアメリカをむしばんでいく。
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by reem-akemi | 2005-06-08 01:29 | NewYork

グランドゼローその3

2005年06月07日
グランドゼローその3やっぱりニューヨークのことをもう少し書くことにする。

3回目にグランドゼロに行った日のこと。
今回はイラク写真展仲間の高遠菜穂子さんと行く。
ちょっと違う行き方で、6ラインに乗ってウォールストリートの一つ手前。キャナルストリートで降りることにした。駅をあがるとすでにグランドゼロの横のビルが見える。
私たちはもくもくと歩いた。歩きながら彼女の顔を見たら次第に緊張していくのがわかる。

私たちは何も言わずに金網の前に立った。目の前にはHEROと書かれた犠牲者の名前の書いた黒い板。

ニューヨークに長く住む人から、9・11のあと何がショックだったか聞いたら兵士が街にいたことだと教えてくれた。そして彼女は笑った。「フランスなんていつも小銃を持った兵士が街にいるのにねぇ」
いえいえ、イラクではそんなの当たり前。戦車が街にいて歩く人を狙っていることもあるのよ。

そんな話を高遠さんにしたら「そんな話イラク人が聞いたら怒るわ」と笑った。私もそう思う。

ポツリと彼女が言った。
「名前のないイラク人の死がこれよりもたくさんあるというのに・・・。名前がある死に違う意味でショックを受けた」

悲しいけれど、たかだか2000人?イラク人はそういうだろう。イラクの犠牲はあまりに大きすぎる。
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by reem-akemi | 2005-06-07 02:51 | NewYork