毎日思うこと、感じることを日々の時間(とき)の中で綴ります


by reem-akemi
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この頃こっているもの

この頃、手作り化粧品にはまっている。

そもそも始まりは美容院で見たハーブのクリーム。カモミールとローズヒップのいかにも効果がありそうなクリームが簡単に出来そうに書いてあった。たまたま買っていたグレープシードオイルもあることだし、ハーブティーを煎じてつくることにした。
夜中に魔女のごとく片手鍋にハーブを煎じて作ったが、これがまたとても具合が良い♪顔に塗るには油っぽいのでリップクリームとして使用。

インターネットで研究して次はローズヒップの洗顔料にチャレンジ。カオリンとローズウォーター、ローズヒップオイルを使って作成。これで洗うと肌がしっとり。これまた具合が良い♪

次に、残ったローズウォーターにプラセンタエキスとグリセリンを入れて化粧水を作る。豪華にプラセンタエキスをやまほど入れる。肌よ白くなれ!と気合を入れてバシャバシャ使う。なんせ防腐剤が入っていないので2週間で使わなければいけない。ローズウォーターはバラの花を蒸留したものだから使うとバラの香りがあたり一面漂う。私の好きなダマスクローズの香りだ。これが結構精神衛生上とても良い。不自然な合成の匂いにはもうウンザリ。

シリアのスーク(市場)の奥の店で一人の老人がうやうやしく1本のビンを私に見せた。
「ローズダマスク!」
ダマスクローズの天然オイルだ。ふくいくとしたその香りに私は魅せられた。それ以来、香水は返上してダマスクローズのオイルをつけることにしている。

最後は、ボリビアの塩にトルマリンパウダーを入れた自家製のバスソルト。ピンクの塩にピンクのトルマリンパウダー。う~ん・・・痩せるかも・・・。

なんとなしに、この頃、色が白くなってシミが消えたような気がする。バラは絶大だ!
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by reem-akemi | 2005-03-29 02:44
10年ほど前、「この子たちの夏」という朗読劇を地元で5年間続けて上演した。この作品は地人会で毎年上演しているが、ヒロシマとナガサキの原爆にあった母親と子どもの手記をかけあいのように読む。失った子どもへの思い、母への思いが読むものにも聞くものにも伝わり、これを毎年8月に上演することは私にとって亡くなったものたちへの鎮魂でもあった。

 そんな私にある人(現在、週刊Kの編集長をしているKH)が、「あの作品には加害責任の視点がない。いつまでそんなのをやっているんだ」と発言。 正直に言うと、原爆投下に関してはそれまで「加害」も「被害」も意識していなかった。二度と再びあのようなことが起きてはならないという思いだけだった。

 「加害」という言葉が出てきたのは確かベトナム戦争以降。小田実がその著書で「加害」のことに言及したのが始まりだ。それはベトナム戦争における日本の加害責任をいうものだった。それ以降、日本の加害責任を問う作業があちらこちらで始まり、日本の加害責任を問うことが戦争問題の主要テーマになった。

 それはそれで正しいのだけれど、でも、この頃、はたと思う。では、日本の戦争被害者の痛みを、つまり「被害」を我々は検証したのだろうかと。東京裁判で戦争犯罪が裁かれたから、「被害」を口に出すことが出来なくなってしまったのではないか?

 国家は一般市民の戦争被害者への補償をしただろうか?東南アジアで餓死した多くの兵士に対する軍事戦略の誤り、ポツダム宣言を早く受諾しなかった結果の原爆投下、それらの責任はどこにあるのだろう。

 「加害」と「被害」は対立するものではなく、戦争のファクターとしてそれぞれに分類整理するべきではないか。「被害」にも「加害」にも癒しが必要で、癒されなければ人は前に進めない。どれだけ多くの人がどのような状態で亡くなったのか?今も南の海には多くの遺骨が眠ったままになっている事実も知らなければならないのだろう。

 それは、日本がこういう目にあったという国家からの見方ではなく、戦争は常に弱いもの(民衆)を傷つけるという事実を知るために民衆の側から見なければならないことだと思う。敵は誰か?私はいつもそれを考える。

 戦後、日本国憲法は改正によって変わったのだから、日本政府の国民に対する責任というのは明治憲法から日本国憲法に継続していると思う(専門家ではないから断定は出来ないが)。その点、ナチスから新政権を樹立したドイツとは違うと思うのだが、どうだろう?

 国家が「被害」に向き合わなければ市民が向き合うしかないだろう。だとすると、東京空襲を記録するということ、あるいは各地で行われている戦争中の証言記録は大変貴重な作業だとつくづく思う。

 何もしていないのになぜこんな目にあうの?そういう思いはとても理解できる。そう思いながら死んでいったものたちの無念をどこかで昇華できないものだろうか。一人ひとりの尊厳を守るような形で。
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by reem-akemi | 2005-03-23 01:56 | 政治・経済・国際情勢

イラク開戦から2年

イラク開戦から早くも2年がたってしまった。日本人の意識からイラクは遠くなってしまったとか。イラクでは今も多くの人が殺されているというのに、日本のメディアは時々イラクのニュースを流すだけ。多くの日本人がもう戦争は終わったと思っているのだろう。

そして今日、日比谷野外音楽堂ではワールドピースナウによる集会があった。集会のあとはパレードとのこと。私はこの「パレード」という言葉にやるせなさを感じる。イラクで亡くなった多くの命に思いをはせるなら、なぜ「パレード」なのだろう。
「パレード」とは祝賀パレード、優勝パレードなど晴れがましいことに使われている。
平和運動に関わったことのない人たちを呼び込むために「デモ」ではなく「パレード」という表現をしているとWPNは説明するが、私はそこに戦争被害者への悼みを感じない心の鈍さを見る。

占領とは何か?人間を辱め、侮辱し、日常的な暴力に耐える生活、それが占領だと私は思う。冗談を言いながらイラク人を射撃する米兵。かつていやもおうもなくナチスに殺されたゲットーのユダヤ人がいたように、今も圧倒的な暴力で支配されている人々がいる。その不公平さに疑問を感じたなら間違っても「パレード」などとは言わないと思う。

私にとってデモは権力に対する抗議であり、社会の不正義に対する怒りの表れだ。ところが今日会った若者はデモ(パレード)は世界が平和であってほしいという願いであり、怒りはないという。
彼と話して、WPNが「パレード」という表現を使った理由がわかるような気がした。彼らにとって「戦争」はどこまで行っても遠いことなのだ。

では、社会に対する怒りがないのか?そうではない(と思う)。ホームレスが町の中にたくさんいて、年金はどうなるかわからないし、経済的にも不安定で、先が読めない状態が続いている。そんな不安が人の心を暴力的にしているような気がする。対立を好み、人を差別する。
自分の頭の上に爆弾が落ちてくるわけでもないし、銃が突きつけられるわけでもないから、平和だと思っているけれど、社会不安は戦争と無縁ではないはずだ。

作家イレナ・クレブフィッツ(ホロコーストサバイバー)の言葉がとても心に残ったので抜書きする。

私がたどりついた答え、それは、闘い、抵抗し、そして亡くなった、私たちの愛するこれらの者たちに愛情を捧げる一つのやり方とは、彼らの同胞の日常生活が破壊されたときに、それを眼前にした彼らの見方や彼らの怒りを私たちが手放さないということだった。

私たちが日常生活のなかでつつがなく生き続けることを可能にするために必要なのは、この怒りなのだ。

その怒りを、ユダヤ人の状況であれユダヤ人以外の者たちの状況であれ当てはめることなのだ。公共生活が崩壊する、そのどんな兆しでも目にしたならば、私たちの行動と洞察を活性化させるために私たちが呼び起こすべきは、この怒りなのだ。射殺された十代の若者の死を嘆く母親の狂乱。めちゃくちゃにされた家、あるいは破壊された家の前で茫然と立ちすくむ家族。分断され追放された家族の姿。恣意的で不当な法律が商店の開閉時刻や学校の始業終業時刻を命じること。

文化が自分たちとは異質であることを劣等性の証拠とみなしてその人々を辱めること、市民権もなく、路上に放り出される人々。軍の統制下で生きる人々。これらの悪が平和の障碍であることを私たちは身をもって知っている。こうした情況を認めたならば、そのときこそ私たちは過去を想起し、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人たちを鼓舞したあの怒りと同じものを抱き、その怒りが現在の闘いへと私たちを導くようにするのだ。

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by reem-akemi | 2005-03-20 00:23

NHKの回答

2月8日、NHKへ「NHK改ざん問題」についての申し入れ書を行った。政治家にむいている顔を少しでも民衆の側に向けるためであった。
今日、その回答がNHKより送られて来た。

一体、改ざんされた番組で何が消されたのか?安倍は、中川は、何を消したかったのか?

放送法では、異なる意見があった問題は両者を平等に扱うというようなことが書いてある。異なる意見を相互に出すことで私たちは真実に近づくことが出来ると思う。物事は両面から見ないと眞の姿を見ることは難しい。

では、あの番組(ETV番組「問われる戦時性暴力」)では一体何が断罪されたのか?戦時性暴力が断罪されたのではなく、ラッセル法廷以来、国家権力を裁くことの出来ない民衆が国家を裁く唯一の法廷ー民衆法廷ーそのものが「模擬裁判」として断罪されたのではないか。
その結果、あの番組はETVの狙いであった「和解」とははるかにかけ離れたテーマを持った映像となった。その意味では完全に「駄作」だと思う。

あんな駄作にすることが現場の製作者の願いだっただろうか?第1夜の作品に比べてあまりのめちゃくちゃ加減に私たちは疑問を感じるのだ。不自然さを感じるのだ。

ヨーロッパにおけるナチスの問題を解明するように、アジアにおける日本軍の問題を私たちは事実として受け止めたいと思う。アジアの痛みを知ってこその「和解」ではないだろうか。

以下にNHKの回答を貼り付ける。視聴者を小ばかにしたNHKの回答に怒りを感じる。

NHK受信料支払い停止運動の会 御中

 平素より、NHKの放送番組について格別のご理解、ご協力をいただき、厚くお礼申し上げます。

去る2月8日、NHK放送センターで、NHK会長あての「申し入れ書」を受け取りました。視聴者のみなさまのご意見・ご要望にお答えする責任者であるわたくしから、ご説明申し上げます。

まず、2001年1月30日に放送しました、ETV2001シリーズ 戦争をどう裁くか」 第2回「問われる戦時性暴力」につきまして、NHKの基本的な立場を申し上げます。
この番組の制作過程において、「申し入れ書」で指摘されたような政治的圧力を受けて番組の内容が変更された事実はありません。番組は、NHKの「国内番組基準」にある「意見が対立している公共の問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにし、公平に取り扱う」という指針に基づいて制作し、放送の直前まで構成の検討と編集作業を継続しました。番組はNHKの責任で制作・放送したものです。
NHKでは、多くの番組についてなるべく多くのかたにご覧いただくため、事前の番組広報を行っています。また、その広報内容に関して問い合せがあることもありますが、できるだけていねいに説明することにしています。また、与野党の国会議員に対しても、番組のねらいや趣旨を予算編成や業務計画等の説明の際にお話することがありますが、話の内容はこうした番組広報の範囲を超えるものではありません。ご指摘の番組でも同様でした。
NHKは公共放送として、何人からも干渉されず、不偏不党の立場を守って、放送による言論と表現の自由をみずから確保しなければならないと考えています。団体であれ、個人であれ放送前に番組の内容を伝えて、相手の判断や指示を求めるような言動はいっさいとっておりません。外部の誰に対しても番組内容について「お伺いをたてる」などということはけっして行っておりません。NHKは、今後とも番組編集の自由を守り続けるために日々努力を続けてまいります。

これまで視聴者のみなさまには、以上の内容を説明してきたものであり、ご要望の1にある「見解を撤回せよ」とのご意向には沿いかねます。要望1の後段のご指摘につきましては、「NHK倫理・行動憲章」に基づく「行動指針」の放送倫理の徹底の項目に「外からの圧力や働きかけに左右されることなく、みずからの責任において、ニュースや番組の取材・制作を行い、豊かで質の高い放送番組を提供します」との規定があり、番組編集の自由を守ることは明確にしてあると考えています。
ご要望2につきましては、現在のところ再放送の予定はありません。
また、編集段階の内容を放送せよとのご要望ですが、NHKとして責任をもつのは放送した番組のみであり、その他のものについてご要望にお応えすることはできないことをご理解いただきたいと存じます。

みなさまには、公共放送としての財源としての受信料制度の意義について、改めてご認識いただき、受信料支払い停止やその呼びかけの行動を即時中止していただきますよう重ねてお願い申し上げます。


平成17年3月7日
NHK視聴者ふれあいセンター
センター長 岡本伸行
TEL03-5455-2500

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by reem-akemi | 2005-03-07 23:57 | 政治・経済・国際情勢