毎日思うこと、感じることを日々の時間(とき)の中で綴ります


by reem-akemi
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今年も蜂が…

2007年07月25日

去年、蜂退治をしたと思ったら今年も蜂がやってきた!
http://blogs.dion.ne.jp/hope/archives/3936941.html

今年の蜂は黄色い色をしたキアシナガバチ。この蜂、巣に入らずコウモリのように巣の上でさかさまにぶら下がっている。全体に黄色いので巣全体が黄色く見える。

庭の剪定を中断して今年もバズーカ式の「マグナムジェット」を購入。暗くなったら敵をやっつけるつもり(><)。夜襲をかける野武士みたい(誰がじゃ!!)
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by reem-akemi | 2007-07-25 18:35 | 日記

自主防犯

2007年07月21日

埼玉県では上田知事の指導のもと2004年より下記のような「防犯のまちづくり推進条例」が施行された。
http://www.pref.saitama.lg.jp/A01/B700/bouhan/handbook/jourei/jourei.html

これにより「県民の責務」として「防犯パトロール」をする「防犯自主グループ」が急激に増加した。ご他聞にもれず私が住む団地でも管理組合と自治会の役員が共同で毎月2回防犯パトロールをしている。

さて、今年から自治会役員になった私に初めての危機が訪れた。すなわち、この防犯パトロールを輪番制で行なおうと副会長(女)がのたもうたのだ!
「何度か参加しましたが30分ほどぶらぶら歩くだけです」

私は以前よりこの「防犯自主グループ」という組織に生理的嫌悪を感じていた。また、治安の不安を煽るマスコミのあり方にも疑問を感じていた。その狙いはなんだろうと。
大きい意味では米軍再編にともなう軍事強化のための地域民衆の意識変革。すなわち個人より公共を優先する意識の育成。そして互いに互いを監視させる「隣組」の復活。

こんな気持ちの悪い組織に協力するのは、まっぴらだ!

で、こう云った。
「基本的に私は強制されるのも強制するのもキライです。なので、もしそのようなことを私たちに強制しようとするなら私はお断りします」
案の定、自治会はてんやわんやの大議論となった。もちろん1対4(ほかは沈黙)。1とは私のこと。
オヤジ副会長は、「集団生活をしている以上ルールがあるのです。ルールがイヤなら出ていったほうがいい」とどこかで聞いたセリフを吐く。
結局、強制はしないということになり、再度ボランティアのお願い文書を全体に出すことになった。

2007年度問題というのがある。リタイアした会社人間たちが組織に依存した生活を抜け出せず、地域でも寄り集まり集団生活をすることを指すのだと私は思っている。自分たちは社会への貢献と思っているだろうが、結局は警察・官僚の下請けを行なっている。

社会福祉関係ならまだわかるが、治安対策など黄色いジャケットを着て警察のような顔をして駐車違反の取り締まりをしているのを見るとゾッとする。

軍事化への土壌はすでに存在する。

*ミクシィ・ブログと同じ内容です。
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by reem-akemi | 2007-07-21 23:57 | 日記
2007年07月12日

「渡野喜屋(とのきや)事件をめぐって」の最後の章です。
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・住民をスパイ視する日本軍

 互いを監視させあう作戦は1944年から始まる。第32軍司令部は11月18日に「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」を策定。「常に民側の真相特に其の思想動向を判断し我が報道宣伝の効果、敵側諜報宣伝、謀略の企画及び内容の探査等敵策動に関する情報収集に努め敵の諜報、謀略並びに宣伝行為の封殺に遺憾なからしむ」として、住民の思想動向を調査し敵のスパイ活動を封殺することとし、これに県当局や警察、地域の警防団などが協力していった。

 しかし、宇土部隊の住民虐殺はこれだけではない。4月17日八重岳から多野岳移動の途中、米軍の上陸を知らせた照屋忠英・本部(もとぶ)国民学校長を本部町伊豆味でスパイとして刺殺している。
 本土防衛のための持久戦に位置づけられた沖縄戦は、南部で壮絶な戦いが繰り広げられる一方、北部では住民を巻き込んでのゲリラ戦となった。その作戦は住民を敵と味方にはっきり区別するものだった。利用できる住民は利用し、利用できないものはすべて抹殺していった。
 屋我地(やがち)島のハンセン病施設「愛楽園」は米軍から支給された米を宇土部隊によって供出させられている。以下は宇土部隊の竹下中尉(1945年6月18日戦死)の残した記述である。

 6月8日 朝、愛楽園を訪ねる。園長の早川(早田の誤記)と泉に会い、米3石と、7月までに25石を用意するように頼む/敵の軍医が嘉手納(軍政府本部)から来ている/カリフォルニア米の4回目の積み荷は、まだ愛楽園の敵側にある(中略)園は敵の配給を受け、徐々に復興しつつある(中略)/屋我地島を我々の食糧基地として保持するために、軍隊を送る必要がある/羽地の捕虜と避難民について話す。偵察を米軍歩哨詰め所に送る。運天も久志のような状態になりそうだ。住民の報告に不快になった。敵に協力するものに躊躇はしない。私たちに協力するものとしないものを区別しなければならない

そのとき入所者は一日一個のにぎり飯で生きていた。軍隊はその彼らに対し米軍から支給された米の積荷半分、兵士200人分を要求したのだ。軍隊などというものは本当にろくでもない。凶器を持った暴力集団だ。
さて、宇土隊が投降したのは10月のこと。彼らは8月20日頃敗戦の情報を得ていたがその後も潜伏を続け10月2日投降することを決定する。
10月3日の「G2」レポートには次のように記載されている。「辺土名(へんとな)と鏡地(かがんじ)の一帯で、国頭分隊の日本軍将校12人、日本兵86人、軍夫1人が投降。国頭分隊の指揮者は、宇土武彦大佐である」。

日本軍の沖縄住民に対する「虐殺」の責任は一体どのように取られたのだろう。宇土部隊の生存者や遺族が名護に慰霊碑を建立して慰霊祭を行っている(ただし、これも彼らの「戦友」を慰霊するものだった)が、沖縄戦における日本軍の戦争責任について政府が言及した記録はない。昨今の日本軍の関与を否定する動きは、沖縄戦において、軍隊が民衆を助けるものではなく民衆にとって危険な存在であったという事実を消し去るものである。

 「戦争」は人を変えるというが、兵士は軍隊という殺人集団の訓練によって変わるのだ。民衆を分断し、憎悪を煽り立て人間の弱みにつけこみ人の心にあるエゴイズムと残虐性を増幅させる政治・軍事組織の台頭を、私たちは決して許してはならない。
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by reem-akemi | 2007-07-12 16:43 | 政治・経済・国際情勢

クマともりとひと

2007年07月11日

日本熊森協会が発行した「クマともりとひと」という冊子を読む。
http://homepage2.nifty.com/kumamori/
すでに5万部が売れ、さらに5万部を増刷したとか。

アフガンから帰国する途中、空から見た日本列島は緑に覆われ、アフガンの土色の大地ばかり見てきた私には日本の美しさは感動的でした。

けれど、それが死の森だったとは!戦後政策の一環で農林事業はヒバとか杉の針葉樹を植え、広葉樹を植えることはありませんでした。そのため森に住む動物たちの食べ物がなくなり、里へ降りるようになったのです。
なんと哀れなことでしょう。。。

群馬の森と栃木の森はなぜか違います。いつもそれがなぜなのかと不思議に思っていましたが、やっと理由がわかりました。群馬の森は針葉樹が多く、栃木の森は広葉樹が多いせいか山全体に丸みがあるのです。もっともそれは群馬と栃木の一部の森の話ですが…。

私たちは私たちの責任で森を少しずつでも元に戻して、森の生き物たちを守っていきたいですね。

この本の扉にあるマザーテレサの言葉に共感します。
「愛は、言葉ではなく行動である」
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by reem-akemi | 2007-07-11 00:19 | 日記
2007年07月06日

沖縄戦について書いた「渡野喜屋(とのきや)事件をめぐって」の続編です。

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では、この処刑の実体はどうであったか?読谷村史編集室は2002年8月に生き残った家族の証言を聞き取り調査している。

 当時、私は四歳だったので何も覚えてないが、兄は八歳だったので、全部見ていたそうだ。私は二十歳の時、兄から両親のことを聞いた。
 私たち家族は、当時、大宜味村渡野喜屋(現在白浜)の民家にいた。その日、父は米軍からもらったメリケン粉を皆に配っていたそうだ。おそらく日本軍は、昼間、山の上の方からそれを見ていたんだろうとのことだった。
 夜中、日本兵が何十人も血相を変えてやって来て、「俺たちは山の中で何も食う物もないのに、お前たちはこんないい物を食っているのか」と言って、男たちを連れて行ったそうだ。私たちの家には、日本兵が五人来ていたそうだ。
 父は殺されるのを知っていたのか、「自分はどうなってもいいから、妻や子どもには何もしないでくれ」と言って、連れていかれたそうだ。父は、家族の目の前ではなく、別の場所で殺された。首に短刀を三つ突き刺され、両方の膝の裏側を「日の丸だ」といって、五〇〇円玉ぐらいの大きさで、丸くくりぬかれていたそうだ。日本兵は、それを「勲章だ、勲章だ」と言って持って行ったとのこと。父は「おかあ、おかあ」と言いながら死んだそうだ。周りは血の海だったそうだ。
 男たちを連れて行った後、日本兵たちは「いい話があります。いい話があります」と言って、残った女子どもを浜に連れて行き、「一、二、三」と言って、手りゅう弾を三つ投げた。その時、兄のそばにいた人は内臓が飛び出して死んでいたそうだ。たくさんの人が亡くなったそうだ。
 幸い兄と妹は無傷で、母は足に軽傷を負ったが、私は顔と手足を負傷して動けなかった。それで、私を残して、母は妹をおぶって兄といっしょに父を探しに行ったそうだ。
 父の死体を見つけたとき、あまりのむごさに母と兄は気絶したそうだ。その時、米兵が母と兄に水を飲ませ、いっしょに父を埋めてくれたそうだ。
 二十歳の頃、私は兄から戦争中のことを聞き、渡野喜屋(大宜味村)を訪ねた。こうこういう理由で読谷から来たと話したら、地元の方が案内してくれたが、あんまり話は聞けなかった。
 私は、現在、本土で結婚して暮らしているが、盆正月には仏壇のことが気になって毎年帰っていた。夫が「男、女ってないから仏壇を持って来なさい」と言ってくれたので、ユタを頼んで拝んでもらい、今は本土に仏壇を持ってきてある。主人はいい人だが、私は、父を殺した同じ大和の人と結婚していることを気にしている。仏壇に向かって、いつも「こんなだから許して下さい」と言って拝んでいる。

 以上が渡野喜屋で起きた事件のあらましだが、このように住民をスパイ視して虐殺するケースは沖縄戦の末期には各所で起きる。住民そのものも情報操作をされ互いに監視しあっていた。渡野喜屋事件の発端も近くの住民が米軍から食糧を支給されている避難民をスパイ視して軍隊に密告するところから始まった。地域全体が飢餓とマラリアに侵されている状況で米軍からの食糧の支給は妬(そね)みの対象であったのかもしれない。
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by reem-akemi | 2007-07-06 00:09 | 政治・経済・国際情勢