毎日思うこと、感じることを日々の時間(とき)の中で綴ります


by reem-akemi
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日本のジャーナリズムは

2007年09月19日

SFから戻ってきたときはめっちゃ元気だったのだけど、次第に気持ちが地味になってきた。日本が秋に近づいてきたせいか…。

1週間かけてリバーベンドのブログを翻訳アップ。
いつものことだけど行動を訳すのは簡単だが、心情を訳すのは言葉を探すのに苦労する。特に私は翻訳を勉強していたわけでもなく自分の感性でやっているから、結果、自分の言葉でしか表現できない。
もしかしたらもっとフィットする言葉があるのではないかと繰り返し言葉を探すため、どんどん表現が変わっていく。

SFのジャパンソサエティでWさんの「Little Birds」が上映され、翌日のシンポに参加した。イラクにジャーナリストが入国しずらくベトナム戦争時と違い情報がうまく入らないというようなことを彼が言ったので、私は「イラク人自身の発信がブログ等でなされているし、イラク人自身からビデオも流れている。問題はそれを私たちが共有できていないことではないか?」と質問した。それに対して彼は「そのような情報は真実性が疑わしい」と答えた。

数年前、リバーのブログを刊行するときに某書店で言われた言葉と同じ。私は少々がっかりした。正直に書くと、彼に対して「傲慢さ」を感じた。命をかけて発信しているイラク人にどう答えるかが私の課題だけど、恐らく立っている場所が違うのだろう。

どうあがいても私たちには世界の一部しか見えはしない。象の足から、鼻から、耳からその大きさを想像できはしても象全体が見えないのと同じで、私たちは切り取った断片から全体を想像するしかない。

ジャーナリズムとは何だろう?書き手の思考というフィルターを透す限り客観性に限界があると思うのだが。とはいえ、イラクで命を落とすジャーナリストはたくさんいて(その多くがイラク人)、その活動には頭が下がるし尊敬に値する仕事だと思う。

私が言いたいのは事実の断片をかき集めても所詮真実に近づくだけに過ぎないのだから謙虚であってほしいということだ。世界全体の実像は時間が解決してくれる。見えなかったものも歴史が見せてくれる。ジャーナリズムは世界全体が見えるまでの一片の記録にしか過ぎない。

謙虚なジャーナリストが日本にいなくなってしまったのが残念だ。

(Mixiブログと内容が重なります)
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by reem-akemi | 2007-09-19 09:58 | 日記
2007年09月17日

Baghdad Burning byリバーベンド、9月6日のブログをやっとアップします。彼女がアップしたときサンフランシスコにいて気がついたのが帰国してからだからずいぶんと遅くなってしまいました。さらに今回のブログの内容の重さに言葉を選ぶのが難しく時間がかかりました。ところで今日のニュースではイラク人のシリアへの入国が拒否されることになり、ビザの滞在期間も限定されるようです。やっと入国できたリバーたち一家はこれからどうなるのでしょう???ラエド・ジャラールのようにいっそアメリカに行ったほうがいいのでは、などと思ってしまいます。

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2007年9月6日木曜日
故国を離れて…

2カ月前、荷造りをした。6週間近く私の部屋に置きっぱなしになっていた大きなスーツケースは、衣服と身の回り品をいっぱい詰め込みすぎて、Eと隣の6歳の子どもに助けてもらい辛うじてファスナーをしめた。

スーツケースの梱包は、これまで私がしなければならなかったことの中でも最も難しい作業だった。まさにスパイ大作戦:リバー、あなたの任務は30年間集めたもののなかからどうしても必要なものを選び出し決めること。この任務の困難な点は、それらの品物を1メートル×0.7メートル×0.4メートルのスペースに収めること。これにはさまざまな個人的な思い出の品々、たとえば写真、日記、ぬいぐるみ、CDなどのほか、これからの数カ月に着る衣服もを含んでいる。

私はそれらの品々を収めては取り出し、なんと4回も繰り返した。荷物を取り出すたびに、絶対に必要でない品物は捨てると誓った。が、やり直すたびに、さらに多くのものを詰め込んでいた。 1カ月半たって、私がスーツケースの詰め替えを繰り返しているのを見て、ついにEが自分でバッグを閉めると言い出した。

各自1個ずつのスーツケースという決定は父によってなされた。父は私たちが用意し始めたさまざまな思い出のつまった箱をチラッと見て、その結論に達した。家族それぞれのために同じ大きさのスーツケースを4個購入し、クロゼットから書類を入れるための小さな引き出しを5つ引き出した。それには卒業証書、身分証明書など必要な書類を入れた。

私たちは待って…待って…待ち続けた。試験が終わる6月の中旬から下旬に出発すると決めていた。おばと彼女の2人の子供も一緒に行くことになっていたので、その時期が一番いいだろうと考えられていたのだ。ところが、最終的に「出発日」と決めた日、2kmも離れていないところで爆発が起こり、外出禁止令が出た。旅行は1週間延期された。そして次の出発前夜、私たちを国境まで運ぶ予定であったGMC[註 ゼネラルモータースの車。イラクでは長距離用に使われている頑丈で大型の四輪駆動車]の持ち主のドライバーに断られた。彼の兄弟が銃撃され殺されたのだ。再び、出発は延期された。

6月の終わりころ、荷物がいっぱい詰まったスーツケースに座り、私はただただ泣いていた。7月始め頃、国を出ることなんて到底出来ないと思いこんでいた。私にはイラク国境がアラスカ国境のように遠く思えた。飛行機の代わりに車で出発すると決めるのに2カ月以上かかった。ヨルダンの対案としてシリアに決めるまでにさらに1カ月かかった。出国の予定を組み替えるのにいったいどれくらい時間を費やしただろう?

一夜のうちにハプニングが起きた。おばが心踊るような知らせを電話してきたのだ。息子の命を脅迫された隣人のひとりが48時間後にシリアに向けて発つつもりだという。そして彼らは別の車で同行する家族を探しているらしい。ジャングルのガゼルのようにグループで旅行するほうがより安全だからだ。それからの2日間は忙しく動き回った。私たちは、これからの生活に必要となるであろう品物がすべて梱包されているかをチェックした。留守番をしてもらう予定の母の遠い親戚には出発前夜に来てもらうように頼んだ。留守にすると誰かに家を盗られてしまうので空っぽに出来ないのだ。

家を離れるときは涙でいっぱいだった。その朝、おばとおじが別れのあいさつを言いにやってきた。厳粛な朝だった。私はこの2日間泣かないようにと心構えをし続けていた。泣くもんか。だってここに戻ってくるのだからと私は言いつづけた。泣くもんか。戦前、モスルやバスラに行ったときの小旅行と同じなんだから。安全かつハッピィに戻ってくると自分に納得させたにもかかわらず、のどの奥に大きな塊がつかえていた。泣かないぞと思ったのに、目は真っ赤になり鼻水が流れてきた。アレルギーのせいよと自分に言い聞かせた。

私たちはやるべき小さなことがあまりにたくさんあって出発前夜寝ていなかった。電気もまったく来なかった(地域の発電機も動かず、公共の電気は絶望的だった)。眠る時間などなかった。

最後の数時間はぼんやりとしている。家を離れる時間が来て、私はすべてのものにさようならを言うため部屋から部屋を歩き回った。机さん、さようならーこの机は高校から大学まで使い続けたものだった。カーテン、ベッド、ソファたち、さようなら。子どもの頃、Eと一緒に壊してしまったひじ掛け椅子さん、さようなら。家族が集まって食事をしたり、宿題をした大きなテーブルさん、さようなら。かつて壁にかけられていた額入り写真の亡霊さんたち、さようなら。それらの写真はすでに取り外されしまわれてしまったが、私はどこに何がかかっていたかを覚えている。みんなで夢中になって遊んだボードゲームさん、さようなら。カードとお金がなくなったアラブ版モノポリー。でも誰も捨てる気にはならなかった。

それらがすべて単なる品物であることはわかっているし、わかってもいた。人々のほうがずっと大切だということも。けれど、家は歴史を語る博物館に似ている。カップやぬいぐるみを見れば、それにかかわる思い出の数々が目の前に広がる。突然、私は自分が考えていた以上の離れがたい思いにうちのめされた。

ついに午前6時が来た。私たちが熱いお茶の入った魔法瓶、ビスケット、ジュース、父が持っていくと主張したオリーブ(オリーブ?!)などなどを用意している間、GMCは外で待っていた。おばとおじは悲しげに私たちを見つめていた。どう云ったらいいのだろう。旅たつ親類や友人を見つめていた私の目にあったのと同じような表情だ。怒りをこめた無力感と絶望。善良な人々がなぜでて行かなければならないのか?

泣かないと決めていたにもかかわらず、別れる際になって私は泣き出した。おばも泣いた…おじも泣いた。両親は冷静だったが、別れの挨拶は涙声となっていた。最もつらいのは、さようならを言った後、再びこの人たちと会えるのだろうかと思うことだ。おじは、私の髪にまきつけたショールをしっかりと締め直し、「国境に着くまでかぶり続けているんだよ」とアドバイスした。おばは、車が車庫から出ると背後にまわり、地面にボールの水をまいた。それは旅行者が無事に戻ってくるようにという伝統的な儀式だ。

旅行はえんえんと、何事もなく過ぎていった。そして覆面をつけた男たちのいる2箇所のチェックポイントを通った。彼らは、身分証明書を見せろといい、パスポートをちらっと見て、私たちがどこに行く予定かと尋ねた。私たちの後ろの車にも同じことが行われた。チェックポイントは恐ろしかったが、視線を避け、礼儀正しく質問に答え、小さい声で祈ることがベストな方法であることがわかっていた。母と私は念の為宝石と思われるようなものは身につけないように気をつけていた。そしてロング・スカートをはき、ヘッドスカーフをかぶっていた。

シリアは、ヨルダンを除き、ビザなしで入国できる唯一の国だ。ヨルダン人は避難民にひどい仕打ちをしている。何家族もがヨルダン国境で追い返されたりアンマン空港で入国を拒否されるという危険を犯している。多くの家族にとっては高過ぎるリスクだ。

私たちは一緒にいたドライバーが「コネ」を持っていたにもかかわらず、何時間も待った。コネとは、彼が何度もシリアを往復したことから、国境を無事に通過するための賄賂を渡すべき人間をよく知っているということだ。私は落ちつかない気持ちで国境にいた。涙はバグダッドを出たおよそ1時間後に止まっていた。汚い通り、廃墟となったビルと家、煙が立ち込めた地平線を見るだけで、より安全な場所に行ける機会を持ったことがいかに幸せかがわかったからだ。

バグダッドを出たときから、もはや私の心には別れを言ったときのような痛みはなかった。国境では周囲にいる車も私を不安にさせた。爆発する可能性の高い自動車の間にいたくはなかったのだ。とはいえ、周囲にいる人々(ほとんど家族だったが)がどんな顔をしているのかを見たい気持ちもあった。他方ここ4年間トラブルを避けることも私の習い性となっていた。しかし、それももう終わりだと、私は自分に言い聞かせた。

ついに私たちの番が来た。私は体を固くして、お金が手渡される間、じっと待っていた。パスポートがチェックされ、やっとスタンプが押された。私たちは入国するよう誘導された。ドライバーは満足そうに微笑み、「楽な旅でしたね、アルハムドリッラー」と明るく言った。

国境を越え、最後のイラク国旗を見たとき涙が再び流れはじめた。国境を越えている間、車内は静かだった。ドライバーだけが脱出劇の数々のおしゃべりをしていた。隣に座っていた母をそっと見ると、母もまた涙を流していた。イラクを出たというだけで私たちは何もいえなかった。すすり泣きたかったが、赤ん坊のように思われるのは嫌だったのだ。ここ4年半地獄のような場所から脱出する機会を与えてくれたドライバーに恩知らずだと思われたくもなかった。

シリア国境もイラク国境と同じように混雑していたが、リラックスした雰囲気にあふれていた。人々は車から出てストレッチングをしていた。互いに気づいて手をふったり、車窓ごしに悲惨な話や意見を交換しあっていた。最も大切なことは、私たちが皆同じ立場だということだ。スンニ派とシーア派、アラブ人とクルド人…私たちは皆、シリア国境職員の前で等しく平等だった。

私たちは金持ちか貧乏人であるかを問わず全員避難民だった。そして、難民はすべて同じように見えた。顔には独特の表情があった。安堵と悲痛がないまぜになり、不安そうにも見えた。誰もが同じような顔をしていた。

国境を通り過ぎた瞬間、限りない安堵と限りない悲しみで、私の心は押しつぶされそうだった。わずか数キロ、たぶん20分くらいしか離れてないのに、こんなにもはっきりと死から生を分かつとは…。

目には見えず触ることも出来ない境界線が車両爆弾、民兵、殺し屋集団と平和、安全の間に立ちはだかっているとは…。それが今でも信じ難い。

私は、ここでこれを書いていて、爆発音が聞こえないことを不思議に思ったりする。飛行機が頭上を通過するとき窓がガタガタいわないことに驚く。黒づくめの武装集団がドアを蹴破り私たちの生活に入ってくるのではないかという恐れを追い払おうと努めている。道路封鎖、ハマー(註 米陸軍の野戦車両)、ムクタダの肖像画などのない道路に自分の目を馴れさせようと努力している。

なぜ?ここから車でほんのちょっと行った先ではこれらすべてのことがあるというのに。

リバー@午前12時6分

[翻訳 細井明美]
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by reem-akemi | 2007-09-17 16:23 | バグダッド・バーニング
2007年09月11日

昨日、SFから帰国。意識はいまだSF。眠っているとオークランドの家のキングサイズベッドにいるような気がしてしまう。それほど居心地が良かったということかも(^^)。

なぜこんなに居心地が良かったのだろう?人々がフレンドリーだから?それもあり。風がさわやか?うん、それもあり。すべてに先進的だから?そう、それもあり。う~~~ん、結局、「なんでもあり」の自由さかもしれない。

私の中の「枠」がひどくちっぽけなものに思えた。なんだか他人に優しくなれそうな気がする。

ローリーのように、イベットのように、行動と思想のバランスが取れた女性になりたい。SFで私は生きる勇気をもらった!

#私がSFで過ごしている間にリバーがアップしていました。あわてて、今翻訳中です(^^;)
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by reem-akemi | 2007-09-11 14:57 | 日記

サンフランシスコへ

2007年09月01日

この頃mixiのブログは書くのだけど、こちらのほうの筆が進まない(こういう表現がブログにあうのかどうかわからないけど)。というのも「批評」が馴染まなくなってきたから…。偉そうに言える立場かなぁと、どうも弱気な私。

いっそ閉じたい気分も…。う~~~ん、そういうときもあるかもね(^^)

と、書かないことの言い訳を少ししている!!

さて、もう9月1日になってしまった。今日の夕方の飛行機でサンフランシスコに行く予定。ベイ・エリアの反戦運動を見てくるつもり。9月2日にヒッピーの40周年大会があり、まずこれに参加(懐かしい♪)。そのあとは「戦争より農業を」という団体の農場へ行ったり、女性センターへ行ったり、UCLAバークレー校の学生とのミーティングなど、めいっぱい動いてくる予定。

おそらくこのサイトの書き込みは帰国してからになると思うけど、もしかしてアクセスできたら情報を流しますね(^^)v

#アメリカは2005年のNY以来だけど、状況はどんどん変わっているもんね。
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by reem-akemi | 2007-09-01 00:49 | 日記