毎日思うこと、感じることを日々の時間(とき)の中で綴ります


by reem-akemi
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2007年10月27日

Baghdad Burning byリバーベンドの10月22日分をアップします。
PCが壊れて、せっかく訳したものがアッという間に消え、涙続きの翻訳でした。でも、私の悲劇なんて悲劇にもならない…。私はアフガン難民キャンプを訪れたこともあるけど確かに難民を難民として見ていたような気がする。誰でも自分の身にふりかからない限り見えてこないものがある。イラク難民の問題は世界が考えなければならない問題だと本当に思う。だって、4年前にイラク難民は存在しなかったのだから…。
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2007年10月22日月曜日
国境なきブロッガーたち…

シリアは美しい国ー少なくとも私はそう思う。「私は思う」と言うのは、シリアを美しいというとき、安全・セキュリティ・安定した状態を私は「美しさ」だと勘違いしているのではないかと思うことがあるから。いろいろな意味でダマスカスは戦前のバグダッドに似ている。にぎやかな通り、ときたま起きる交通渋滞、買物客でごった返す市場…。でも、バグダッドとは異なる点も。ビルは高く、道路は狭く、遠くにぼんやりとカシヨーン山が見える。

山は多くのイラク人がそうであるように私の心をかき乱す。特にバグダッドから来たものにとっては悩ましい。イラクは、北部には山があるが、あとは平野ばかりだから。夜、カシヨーン山は暗い空に溶け込み、ちらちら灯るたくさんの灯りが見えるー山の中に家とレストランが建っているのだ。写真を撮るときはいつもカシヨーン山を入れることにしている。人を撮るときも背景にはいつもカシヨーン山が見えるというわけ。

ここに来た当初はある種のカルチャー・ショックを受けていた。戦後のイラクで身についた習慣を取り去るのに3カ月かかった。通りで人々の目を避けたり、交通渋滞に巻き込まれたとき小声で夢中になって祈りを捧げたりするような変な習慣を身につけ、奇妙なことをしているのさえ気がつかないのはこっけいだ。後ろを振り返ることなく、頭を上げて、再びきちんと歩くようになるまで少なくとも3週間かかった。

今、少なくとも150万人のイラク人がシリアにいると言われている。そうだろうと思う。ダマスカスの通りを歩くと、いたる所でイラク訛りを聞く。イラク難民であふれたGeramanaとQudsiyaのような地域がある。これらの地域にシリア人はあまり住んでいない。その地域の公立学校はイラク人の子どもでいっぱいだ。イトコは今Qudsiyaの学校に通っている。彼のクラスには26人のイラク人の子どもと5人のシリア人の子どもがいる。それは時に想像を越える。ほとんどの家族は自分たちの貯えで生活しているが、すぐに家賃と生活費で使い果たしてしまう。

ここに来てから1カ月くらいたったころ、多くの国がそうであるように、シリアもイラクからの入国にビザが必要になるという話が伝わってきた。イラクの政権を握っている傀儡たちは、シリアとヨルダンの当局者たちに会い、イラク人の最後の安全な避難場所であるダマスカスとアンマンを奪い去ろうと決めたのだ。この話は8月の下旬に始まり、10月前半まで伝わってきた。今シリアに入国しようとするイラク人は、シリアの領事館かもしくは自分がいる国のシリア大使館発行のビザを必要とする。イラク国内のイラク人の場合は、内務省の承認が必要であるとも言われている(内務省の民兵から逃げる人々にとって、それは難しい)。今日、国境でのビザ取得に50ドル必要だという話が伝わってきた。

ビザが発行される前にシリアに入ったイラク人は国境で1カ月有効のビザを手に入れている。ビザが切れたらすぐにパスポートを持って地域の入国管理事務所へ行く。運が良ければ、1~2ヵ月ビザを延長できる。シリア大使館でのビザ発行が始まったとき、シリアは国境でのビザの延長を止めた。私たちは素晴らしいアイデアを思いついた。ビザ騒動が始まる前、私たちのビザの更新が必要となる前に、私たちは国境検問所に行くことを決めた。イラクに渡り、再びシリアに戻ってくるのだ。誰もがそうしていた。それで少なくとも2ヶ月のビザを手に入れることができる。

9月前半の暑い日を選んで、6時間かけてKameshli(北シリアの国境の町)まで行った。おばと彼女の息子も私たちと一緒に行った。彼らもビザの延長を必要としていた。KameshliにはYaarubiyaと呼ばれる検問所がある。イラクとシリアの国境がわずか数メートルしか離れていない楽な検問所だ。シリア領土を出て、再びイラク領土に歩いて入る。簡単で安全だ。Yaarubiya国境検問所に着いたとき、愕然とした。何千人ものイラク人が私たちと同じようなことを考えていたのだ。国境への列はどこまでも続いていた。出国ビザが押されたパスポートを持って何百人ものイラク人が長い列をなして待っていた。私たちも人々の列に加わって、待った。待って、待って、待ち続けた…。

シリア国境から4時間後に、イラク国境の列に並んだ。それはさらに長かった。私たちは疲れきってイライラしたイラク人の列の1つに加わった。「ガソリンの行列に似ているね」と、若いイトコは冗談を言った。太陽の下の4時間待ちの始まりだ。赤ん坊のハイハイのように行列はゆっくりと進んだ。行列はさらに長くなった。イラク入国のスタンプが押される場所までパスポートの行列は続いていたが、ある場所に来ると、行列のはじめと終わりが見えなくなった。行列のわきを行ったり来たりしている少年たちがいた。彼らは水、チューインガム、タバコを売っているのだ。叔母が一人の少年の腕をつかんだ。「私たちの前に何人の人がいるの?」彼はヒューと口笛を吹きつつ、様子を見るように2、3歩下がった。「100、いや1000かな!」と走り去って行ったが、少年はとても嬉しそうだった
私は複雑な気持ちでそこに並んでいた。故郷への切ない思い、何かの拍子にときたま襲われるホームシック、押しつぶされそうな不安などで私の心はいっぱいだった。彼らが私たちの再出国を認めなかったら?可能性がないとは言えないけど、でも本当にそうなったら?これがイラク国境を見る最後だったとしたら?何かの理由でイラク入国がもう許可されなかったとしたら?そしてイラク出国が二度と許可されなかったとしたら?

私たちは4時間の間、立ったり座ったり、しゃがんだり、もたれたりしながら、行列に並んだ。太陽は皆の上に等しく照りつけた。スンニ派もシーア派もクルド人も。E.は手続きが早くなるだろうから家族のために気絶することをおばに説得した。しかし、おばは軽蔑したような眼つきで私たちを見ると、より背筋を伸ばして立った。人々はおしゃべりしたり、悪口を言ったり、あるいは黙ったまま、そこに立っていた。それはまたイラク人の別の集まりにもなった。お互いの悲しい身の上話をして、遠い親類や知人の消息を知る絶好のチャンスだった。

私たちも自分たちの番を待つ間に知り合いの2家族に会った。私たちは長いこと合わなかったかのように互いに挨拶して、ダマスカスでの電話番号とアドレスを交換しあい、訪問を約束した。私は23歳の息子Kのいる家族に彼がいないことに気がついた。湧き上がる好奇心を抑えて、彼の居所を尋ねるのをやめた。母親は私の記憶より老けてみえたし、父親は絶えず物思いにふけっていた。おそらく深い悲しみにあったのだろう。私はK.の生死を知りたくなかった。彼はどこかに生きていて国境やビザで思いわずらうことなどないのだと信じたかった。知らないというのは、時にこの上なく幸せなことでもある…
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シリア国境に戻ると、疲れきりお腹を空かせた大きな一団の中で待った。スタンプを押してもらうためにパスポートを渡すのだ。シリアの入管職員は数十冊のパスポートをふりわけ、名前を呼び、パスポートを渡すとき忍耐強く顔を確かめた。「後ろに下がって。下がって」。私たちが立っている混雑した部屋の後部で叫び声があがった。誰かが倒れたのだ。助け起こされたのは老人だった。彼は杖をつき家族とともに息子に付き添われていた。
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私たちはシリアに再入国して、Kameshli行きのタクシーに向かった。私は自分たちが難民であったという事実を改めて思い知らされた。インターネットや新聞、あるいはテレビで難民について読んだり見たりしてはいた。シリアにおよそ150万のイラク難民がいると聞いても、ノンと頭を横に振る。自分や自分の家族が難民のひとりであると思ってもいずに。だって、難民はテントで眠り、飲料に適した水にアクセスできない人々のことでしょ?違う?難民はスーツケースの代わりにバッグで身の回りのものを運び、携帯電話やインターネット・アクセス出来ない人々でしょ?違う?シリアでの2ヶ月延長が押された、私の命を保障したようなパスポートを握り締め、私は間違っていたのだろうかという思いに打ちのめされた。
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私たちは皆難民だった。私は突然数字になった。どれだけ裕福であるか、教育があるか、良い環境にいるかは重要ではない。難民は難民だ。難民とは、自分の国も含めて、どの国でも歓迎されない者のことだ…特に自分自身の国で。

私たちは2家族のイラク人が住んでいるアパートにいる。上のフロアはペシュメルガによって村から追い出された北イラク出身のクリスチャンの家族だ。私たちと同じフロアにはバグダッドの家を民兵に盗られたクルドの家族がいる。彼らはスウェーデン、スイスのようなヨーロッパの国への移住を待っている。私たちがスーツケースをひきずりながらヘトヘトになって到着した最初の晩、クルドの家族が代表を送り込んできた。2本の前歯がない9歳の少年だ。彼は傾いたケーキを持っていた。
「僕はお向かいに住んでいるアブ・ムハンマドの家族です。ママが何かあったらなんでも聞いてって。これがウチの電話番号。アブ・ダリの家族は2階に住んでいて、これが彼らの番号。僕たちも皆、イラク人だよ…。このアパートへようこそ。」

私はその夜泣いた。故郷から遠く離れ、2003年以来長い間奪われていたイラク人同士のつながりを初めて感じたからだ。

リバー@午前1時42分

(翻訳 細井明美)
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by reem-akemi | 2007-10-27 15:55 | バグダッド・バーニング

リバーがアップ

2007年10月24日

シリアにいるリバーベンドがブログをアップした。
http://www.riverbendblog.blogspot.com/

さきほどまで翻訳していたけど、まだ終わらない。続きは明日だ。
それにしてもシリアのイラク人がビザを取るのにこれほど苦労しているとは…。国を追われる哀しみが胸にしみる。
「難民」と一言で言うけど、その実態を私たちは本当に理解しているとは思えない。

同じことを繰り返し言っても仕方がないのだが、2003年のイラク戦争がなかったら、200万人の避難民も100万人の犠牲者も生まれなかったのにといつも思う。
もし戦争がなかったら、バグダッドの街は美しく、人々は夜になると街角のカフェでお茶を飲み、市場は買い物をする人にあふれ、子どもたちも公園で遊び、鳥が歌い花が咲き、誰もが幸せに生活していたに違いない。

本当に、言ってもしようがないのだが、繰り返し同じことを考えてしまう…。

度を越した不条理を受け入れることがときに堪えがたくなる。
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by reem-akemi | 2007-10-24 00:30
2007年10月10日

昨日に続いて「Last of Iraqis」をアップします。ムハンマド君は沈着冷静の人のようです(英語ではモハメッドと書いてあるけど、アラビア語読みのムハンマドで表記しました)。

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2007年10月9日火曜日
ターゲットは歯医者

昨日の朝、いつものように出勤し、クリニックのビル(政府系)に入り、いつものように同僚とおしゃべりをした。仕事が午前9時に始まるので、早く出勤した場合は皆でおしゃべりに興ずるのが常だった。
午前8時40分のことだ。大爆発が起きた。すべてがいつもと何も変わらなかったのに、ビル全体が地震のように大きくゆれた。ガラスの割れる音、カーアラームの音にまじり、ほこり・煙が充満し、続いて空からたくさんの破片が降ってくる音がした。それは部局の天井と停車中の車を打った。しばらくして、恐ろしいほどの沈黙が起きた。車のアラームだけが鳴り響いている。
沈黙は数秒だったにも関わらず、何年ものように感じてぞっとした。同僚の顔は誰もが同じように青ざめていた。その表情から、皆が何を思っているかは一目瞭然だった。そして一人がジャンプして嬉しそうに言った;「生きてる。神様、感謝します。爆発は近いに違いない」
彼は正しかった。クリニックのゲートで爆発したのだ。僕たちがターゲットだったのか、それともゲート?ほかの誰か?爆弾は入り口のドアにすえてあった。警備員が50メートルしか離れていなかったのに、彼らはどのようにそれを置いたのか?いつ爆弾を置いたのか?
僕たちは何が起きたのかを確認するために走った (クリニックは大きな家を改造したもので、それぞれの部屋が部局になっている)。僕の部屋は通りからいくらか離れていた。何があったかを見るために僕たちはクリニックのドアに行った。すべての歯医者と看護婦がそれぞれの部屋からドアに向かった。

走っていると足の下でガラスの壊れる音がした。生きていることがなんとありがたいことか、と僕は思った。床にちらばった破片とたちこめる煙で、僕は負傷者か死者が出たのではと心配になった。

僕たちはドアに着いた。全員、爆弾が爆発した場所を見ながらそこに立っていた。僕はすぐに訊ねた。「けが人は?」一人の警備員が答えた。「ありがたいことに誰も殺されませんでした。警備チーフが頭にかすり傷を負いましたが」様子を診たかったので、僕は彼が今どこにいるのかを尋ねた。
彼は頭を打って警備員室にいたが、たいしたことはなかった。

誰も死なず、負傷者もいなかった。天の恵みだ。爆弾の前に車が停まっていた。それらの車が衝撃と破片を吸収したのだ。車たちがその日失われたかもしれない幾人かの人命を救った。爆弾に使われた破片をチェックして、それが小さな箱爆弾だということがわかった。それは僕たちを恐がらせ、脅すためのものだ。多くの人間を殺すためのものではなかった。しかし、それはクリニックの入り口のドアに置かれたのだ。殺そうと思えば、彼らは簡単にそれが出来るということだ。安全な者は誰もいないし、他の者の安全を誰も保証できない。現場を検査した後、ガラスと破片はきれいに掃除された。何事もなかったかのように、すべてが通常の状態に戻った。
僕は何枚かの写真を撮った。そして僕たちはなぜ爆弾がそこにあったのかを皆で話し合った。僕たちを脅かすため?その日は治療がなかったので、早く帰宅した。

今日はいつものように働いている。僕たちはいつものように患者を治療している。すべてがいつもどおりだ。壊れたガラスと爆発の破片で壊された数台のエアコンを除いて…。
ここに、爆発の後に撮った勇敢な車の写真があります!警備員室と爆発現場も。

ムハンマド@午前2時5分

#写真はオリジナルサイトを参照してください

(翻訳 細井明美)
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by reem-akemi | 2007-10-10 00:32 | iraq
2007年10月09日

Last of Iraqisという25歳のバグダッドの医師が書いているブログがある。今日はそれを翻訳アップした。
彼も書いているが、バグダッドで行なわれている殺戮は犯罪だと私も思う。政府がきちんと機能していたら、犯人は逮捕され、しかるべき処置を受けるだろう。法治国家ではありえないことだ。その意味でも多国籍軍の責任は大きい。
イラクだから特別だと思わないで欲しい。国家が国家としての機能を果たさないことの意味を私たちは考えるべきだろう。

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2007年10月1日月曜日
メソポタミアの死の芸術

囚人や政治犯を自白させるためにさまざまな拷問が行なわれるのを聞いていると思う。ウランを飲まされ毒殺されたロシア人、あるいはアブ-グレイブで起こったことについて知っていても、民兵とアルカーイダがイラク人に自白させるために何をしているかを人々が知っているとは思えない。彼らは人を殺すだけでなく殺人を楽しみ、愛するものとその両親に深い悲しみを負わせ苦しみを与えている。人々は恐怖に恐れおののき、銃撃か爆発で死ぬことを願っている。いまやイラクでは、弾丸か爆発で死ねれば天の恵みといえる。こんな死に方がどこにあるというのか。民兵とアルカーイダは殺戮を楽しんでいるようだ。彼らはそれが芸術であるかのように思っているのだろう。彼らが人々を殺す方法は、より気味悪く残酷になり、芸術だと思っているかのように、より創造的になっていく!

僕が書いていることは本当だ。直接あるいは間接的に知っている人々に起こったのだから。言いたくないが、いくつもの「創造的方法」がある。

始めにアルカーイダとマハディ軍が使っている方法から言及しよう。身代金を求めるか否かに関係なく、彼らは誰かを誘拐したときドリルで穴をあける;多くの場合、身代金を支払っても、殺される。彼らは、誘拐した人間の腕、脚、胸、頭、さらに目さえも、穴を開けるのに通常ドリルを使う。もちろん生きているときにだ。なぜなら彼らはドリルで死ぬから。また、誘拐された者がドリルを使うことにより早く死んでしまいそうなときは、楽しみのために別の方法を使うこともある。彼らは歯と爪を抜くのにペンチを使う。ペンチで歯を抜くことがどれくらい苦痛であるか神のみぞ知る。僕は歯医者だから、それがドリルよりもっと痛みを与えることを知っている。この方法はとりわけ最も一般的で、最も適したやりかただ。

別の「罰」は、そう、米軍やイラク政府と共に働いている何者かが刀で頭を切ることかな。これは古く、彼らはそれに飽きたので、新しい方法を発明した;彼らは、刀で犠牲者の頭を切り腹を開く。それから腹の中に頭を入れ縫い合わせる。そのあと彼の家のドアの前か近所に死体を投げいれる。これが彼らのすてきなやり方だ。たまに彼らはゴミために捨てるので死体が犬に食べられてしまうこともある!

父の友人は7歳の息子が誘拐された。彼らは父の友人に身代金を求めた(それがどれだけ大金か、彼は身代金の本当の金額を言わない)。彼は金を支払うことを受け入れた。彼は知人から借金をし、彼が築き上げた資産を売り払い、要求金額を支払った。犯人たちは息子を翌日彼の家のドアの前に連れていくと言ったが、ウソだった!翌日、ドアのベルが鳴り、彼は息子が戻ってくることを期待してドアを開けた。しかし誰もいなかった。家族はドアの前に蓋をした大きな皿を発見、蓋をあけてみると、そこには焼かれた息子の死体がご飯の上に乗っていた。まるでイラクの伝統料理「クージィ」のように。僕はこの話を聞いて、吐き気がして1週間肉が食べられなかった。クージィは僕の好きな料理のひとつだったけど、もう好きではない。

僕がシリアにいたとき、同僚歯科医である大学時代の友人が殺された。僕はシリアにいたので誰がなぜ、いつ、どうやって殺したのかわからなかった。バグダッドに戻ったとき友人たちに何が起きたのかを聞いた。友人は、彼が誘拐されたと教えてくれた。誘拐犯人は彼の両親に身代金を要求し、両親は彼らに身代金を渡した。誘拐犯人からは何も連絡が来なかった。両親はあらゆる場所を探しまわった。やっと法医学センターで身元不明の死体となっていた息子を発見したのだ。そこは毎日10体の死体が出る。彼の体には30ヶ所の弾痕があった。あぁ、小柄な彼に30発の弾丸を撃つなんて…。彼の名前はシーア派とスンニ派の両方に共通する名前であり、とても親切な男だった。大学時代をとおして彼がトラブルに巻き込まれたこともなくトラブルが起きたこともなかった。彼はとても良い人だから、神はきっと慈悲をかけてくれるに違いない。

昨日、アンバール出身のドレイミ族(アンバールで最強の部族)の男性がラヒバ・ハトーンで殺された。彼は誘拐された。隣の家からいなくなったのだ。犯人は彼を連れ去り、「ティーザブ」を飲ませて殺した。「ティーザブ」とはイラクのスラングで、濃縮硫酸のことだ。彼らは彼がスンニ・ドレイミだから殺したのか?彼にどんな恨みがあったのか?最近は宗教、セクトに関係なく、たくさんの人間が殺されている。彼らは金を手にいれるためにさらに殺人をエスカレートさせている。ラヒバ・ハトーンはかつて買い物によく行った場所だが、1年半前に訪れて以来行ってない。なぜならそこはアダミヤ以上に危険な地域となったからだ。そして、この近所でも隣人のひとりが殺された。彼はスンニ派の若い男性で最近結婚したばかりだった。彼は妻と車に乗っているとき、彼らに止められ、妻の目の前で頭に銃撃を受けた。彼らはあっという間に、若くて生きる情熱に燃えた男性の人生だけでなく、2家族の人生をも破壊した。

かつて僕がウェブログを作り始めた頃、マハディ軍が死んだ老人のあごひげをひきずってサドルシティの道路を通るビデオを友人のPCで見た。僕はムクタダが許容している暴力にもっと言及すべきだった。彼がスンニ派であったこと以外に、理由はない。彼らは彼を引きずりながらサンダルでたたいていた (それはイラクとアラブ文化では最大の屈辱だ)。それから彼らは老人に痰唾を吐き蹴った。しばらくすると彼の顔はひきずられ、たたかれたために、血まみれになり分別できないほどになった。死体は血と土にまみれた。彼がどういう人間であれ、すべての遺体は尊厳を受けてしかるべきだろう。この憎しみはなぜ?殺人が楽しいのだろうか?人の命を奪うことが楽しいのだろうか?お金のために彼らは彼の頭に1発の銃弾を発射し、彼の人生を終わらせたのか。彼らはなぜこんなことをするのだろうか?

宗派でもなく、ましてや宗教でもない。イスラームはこんなものでない。決してこのようなものではない。イスラーム教の別の名前は許しの宗教。彼らは犯罪者だ。彼らは性格がゆがんだ犯罪者だ。自分のしたことを宗教だと思い込んでいる無知な人々だ。単なるギャングであり、それ以上でもそれ以下でもない。

これらの話は、最近のイラク、バグダッドで毎日起きていることの一片にしか過ぎないというべきだろう。一日、少なくとも10体の未確認の遺体が出て、さらに別の10体の遺体の身元が発見される。遺体それぞれに語られるべき物語がある。

警告:
ここに、これらギャングによる犠牲者のリンクがある。暴力とゾッとするような光景が載っている。影響を強く受ける人には、以下の映像を見ることを勧めない。
以下は僕がリンクをはった理由。Burathaモスクはジャラル・アルサギールのいるアル・ダッワー党とバドル旅団の本部。そこで彼らはスンニ派のイスラム教徒を拷問し殺している。そして、このモスクは国家警備隊と内務省の兵士によって警備されている。

写真1 
写真2 
写真3 写真4
写真5
写真6
写真7

それらの写真を見た後で、残忍な拷問がないなら、死もそんなに悪くないという意見に同意する。誰もが識別され、謹んで埋められるならば!!!
イラクでそれを求めるのは無理だろうが。。。

ムハンマド@午後2時59分

(翻訳 細井明美)
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by reem-akemi | 2007-10-09 00:39 | iraq

アル・ハヤート

2007年10月06日

昨日数年ぶりに知人に遇う。開口一番、「いやぁ、ずっと親の介護をしていて、この春に亡くしたんだけど、そのあと今度は目が見えなくなってねぇ…」とかけていた眼鏡をはずした。ちょっと変わった形をした眼鏡だった。

「テレビを観るくらいは出来るんだけど文字はちょっとね。本を読まない生活をしていると、自分がだんだん壊れていくような気がしてくる」
彼はフランス語を勉強してから英語の文法が理解できたと笑う。そういう人が本を読めないというのはかなりつらいことだろうと思う。
「で、アラビア語は時制についてはどうなの?」
う~~~~ん。難しい話が好きなんだなぁ。。。目が見えないのはさぞかしつらいだろうなぁ。

もし私の目が見えなくなったら、私は何をするだろうと思った。朗読ボランティアとしてトルストイを読んだことがあるが、私の場合はトルストイなど聴く気にはならない。やっぱりつらいなぁ。語学の勉強も目が見えなければ出来ないしなぁ。。。

そして今日、やはり久しぶりにある人に遇った。彼は高校教師を定年後、昭和史を研究して、いまや人に乞われ県内の3ヶ所で歴史を教えている。
今夜、明治大学で歴史講座があるので行くところだと目を輝かして言う。
「私は自分の人生を5年ごとに区切ってまして、今年77歳になるんですが、それまで5年だった区切りを3年に変え、あと3年で何が出来るか考えました。この年になると時間が惜しくて。。。それで今の夢は立命館大学で勉強することです」
彼は年々若くなるような気がする。

健康であればこそ勉強も出来る。自分が壊れていくと感じている40歳と、ますます豊かに老いていく77歳。健康であればこそポジティブにもなれる。

そうそう、壊れていくと言った彼はこうも言っていた。「今、僕は自分の人生を再生しているんだ」。そうだよ、まだ若いんだもの。がんばらなくっちゃ!

私は手をふって別れた(それぞれ違う場所だけど)。命がいとおしいと感じる時間が増えてきたのは年を取ったせいかもしれない
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by reem-akemi | 2007-10-06 00:30 | 日記