毎日思うこと、感じることを日々の時間(とき)の中で綴ります


by reem-akemi
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恥知らずな判決

2008年06月16日

6月12日、NHK裁判の最高裁判決が出た。本来ならヨルダンにいるはずの私だったが関西空港で思いもかけないアクシデントがあり、日本にいたおかげでこの恥知らずな判決を聞くことが出来た。47席という小さな法廷に100名近くの傍聴人がおしかけ、最高裁の庭にはクジ引きをするための列が出来ていた。松井さんも聞きたいだろうと思い、私は彼女の形見の赤いネックレスをして列に並ぶ。居並ぶ懐かしい顔…。

7年前の01年1月、この裁判の発端となった日のことを私は昨日のことのように覚えている。暴力と戦争に満ちた20世紀が終わり、21世紀こそ希望に満ちた世界に変わるものと期待していたが、2001年は新自由主義と国家主義が力をつけるために結びついた、その分かれ目だったに違いない。

国家権力を裁く民衆法廷は「民主主義」が社会に行きわたっていてこそ理解されるものだと今さらながら思う。それは国家による裁判を否定するものではなく、社会が健全に動いていくために行われるオルタナティブな法廷と理解されるべきだが、6月12日の判決は民衆法廷という思想そのものをも否定して、侵されることのない権力の威信をみせつけた。

では、この7年間の裁判が無駄だったかというと、そんなことはない。法廷でこれまで知ることの出来なかった真実が語られた意味は大きい。01年1月の終わり、NHKで何が起きたのかを私たちはこの裁判によって知った。一部の国家主義者に翻弄されるNHK幹部の行動はシェークスピアがもし生きていたらさぞかし面白い芝居にして見せてくれたに違いない。組織に抗うことの出来ない人間の弱さを見る一方、自らの良心にしたがって行動する人間の気高さも教えてくれた。

本来、「放送法」とは権力からメディアを守るために働くものだが、6月12日の判決はその「放送法」を司法が貶めた結果となった。というのは、判決にいたる理由を「放送法」に求めたからだ。「放送法」を侵したのは誰か?と私は裁判長に問いたい。

6月12日、横尾和子裁判長は主文だけ読んで法廷を去った。まったく誠意のない態度だ。主文にいたる理由を読む義務があるはずではないか。私は翌日最高裁のサイトで判決文を読んで、判決文全体を知ることが出来た。

裁判長は以下のような意見を述べている。
「私は,多数意見の結論に賛成するものであるが,その理由は,判示第2,2(1)に関しては,多数意見と異なり,事実についての報道及び論評に係る番組の編集の自律は取材対象者の期待,信頼によって制限されることは以下の理由により認められないとするものである。取材対象者が抱いた内心の期待,信頼は,それが表明されないままに取材担当者が認識できるものではなく,また,取材の都度,その内容や程度を確認することも報道取材の実際からして期待できるものでもない。
 それにもかかわらず,期待,信頼を確認せずに番組の放送をした場合に,その内容が期待,信頼と異なるとして違法の評価を受ける可能性があるということであれば,それが取材活動の萎縮を招くことは避けられず,ひいては報道の自由の制約にもつながるものというべきである。
 また,期待,信頼を保護することの実質は,放送事業者に対し期待,信頼の内容に沿った番組の制作及びその放送を行う作為を求めるものであり,放送番組編集への介入を許容するおそれがあるものといわざるを得ない。」

 私たちはメディアを信頼して取材されるが、メディアが悪意に満ちた報道をしたとしても司法は「報道の自由」という理由で、私たちの権利を守ってくれないということをこの判決は表している。しかも悪いことに権力の介入については一言も触れない。

だが、国家権力に偏ったこの司法の姿勢がどこまで通じるのだろうか?健全な批判精神こそが今こそ必要だ。この判決は時間の経過とともに「もっとも悪い判例」として残っていくに違いない。伊達判決が「もっとも優れた判決」として私たちの心に残っているように、私たちはこの判決がいかにひどいかということを語っていくだろう。それがこの判決を生かす方法だと私は思う。
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by reem-akemi | 2008-06-16 09:10 | NHK問題