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毎日思うこと、感じることを日々の時間(とき)の中で綴ります


by reem-akemi
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イラク開戦から2年

イラク開戦から早くも2年がたってしまった。日本人の意識からイラクは遠くなってしまったとか。イラクでは今も多くの人が殺されているというのに、日本のメディアは時々イラクのニュースを流すだけ。多くの日本人がもう戦争は終わったと思っているのだろう。

そして今日、日比谷野外音楽堂ではワールドピースナウによる集会があった。集会のあとはパレードとのこと。私はこの「パレード」という言葉にやるせなさを感じる。イラクで亡くなった多くの命に思いをはせるなら、なぜ「パレード」なのだろう。
「パレード」とは祝賀パレード、優勝パレードなど晴れがましいことに使われている。
平和運動に関わったことのない人たちを呼び込むために「デモ」ではなく「パレード」という表現をしているとWPNは説明するが、私はそこに戦争被害者への悼みを感じない心の鈍さを見る。

占領とは何か?人間を辱め、侮辱し、日常的な暴力に耐える生活、それが占領だと私は思う。冗談を言いながらイラク人を射撃する米兵。かつていやもおうもなくナチスに殺されたゲットーのユダヤ人がいたように、今も圧倒的な暴力で支配されている人々がいる。その不公平さに疑問を感じたなら間違っても「パレード」などとは言わないと思う。

私にとってデモは権力に対する抗議であり、社会の不正義に対する怒りの表れだ。ところが今日会った若者はデモ(パレード)は世界が平和であってほしいという願いであり、怒りはないという。
彼と話して、WPNが「パレード」という表現を使った理由がわかるような気がした。彼らにとって「戦争」はどこまで行っても遠いことなのだ。

では、社会に対する怒りがないのか?そうではない(と思う)。ホームレスが町の中にたくさんいて、年金はどうなるかわからないし、経済的にも不安定で、先が読めない状態が続いている。そんな不安が人の心を暴力的にしているような気がする。対立を好み、人を差別する。
自分の頭の上に爆弾が落ちてくるわけでもないし、銃が突きつけられるわけでもないから、平和だと思っているけれど、社会不安は戦争と無縁ではないはずだ。

作家イレナ・クレブフィッツ(ホロコーストサバイバー)の言葉がとても心に残ったので抜書きする。

私がたどりついた答え、それは、闘い、抵抗し、そして亡くなった、私たちの愛するこれらの者たちに愛情を捧げる一つのやり方とは、彼らの同胞の日常生活が破壊されたときに、それを眼前にした彼らの見方や彼らの怒りを私たちが手放さないということだった。

私たちが日常生活のなかでつつがなく生き続けることを可能にするために必要なのは、この怒りなのだ。

その怒りを、ユダヤ人の状況であれユダヤ人以外の者たちの状況であれ当てはめることなのだ。公共生活が崩壊する、そのどんな兆しでも目にしたならば、私たちの行動と洞察を活性化させるために私たちが呼び起こすべきは、この怒りなのだ。射殺された十代の若者の死を嘆く母親の狂乱。めちゃくちゃにされた家、あるいは破壊された家の前で茫然と立ちすくむ家族。分断され追放された家族の姿。恣意的で不当な法律が商店の開閉時刻や学校の始業終業時刻を命じること。

文化が自分たちとは異質であることを劣等性の証拠とみなしてその人々を辱めること、市民権もなく、路上に放り出される人々。軍の統制下で生きる人々。これらの悪が平和の障碍であることを私たちは身をもって知っている。こうした情況を認めたならば、そのときこそ私たちは過去を想起し、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人たちを鼓舞したあの怒りと同じものを抱き、その怒りが現在の闘いへと私たちを導くようにするのだ。

by reem-akemi | 2005-03-20 00:23