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by reem-akemi
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渡野喜屋(とのきや)事件をめぐって-①

2007年06月26日
渡野喜屋(とのきや)事件をめぐって-①6月23日は沖縄慰霊の日。産経新聞は「沖縄戦集団自決 文科省は検定方針を貫け」という社説を載せた。
文中、『沖縄では、集団自決の後、住民を巻き込んだ地上戦が展開され、軍民合わせて18万8000人が戦死した。このうち、沖縄県民の犠牲者は12万人を超える。』としているが、住民の犠牲者に対する日本軍の責任を回避している社説の主張を前提に読むと、住民はまるで流れ弾に当たって亡くなったように読める。はたしてそうだろうか?

宇土部隊が残した日本軍の記録はすさまじい。結局、米軍が上陸した沖縄は二つの軍隊(米軍、日本軍)に占領され、人々はその間を翻弄されつつ生きていたのだ。

以下、小論を掲載します。
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渡野喜屋(とのきや)事件をめぐって
  -沖縄における日本軍の戦争責任-

 ・避難民を虐殺する
1945年3月26日、慶良間(けらま)諸島に上陸した米軍はそこを足場にして、4月1日、1500隻の艦船と1700機の航空機、延べ56万8千人の兵員をもって読谷(よみたん)、嘉手納(かでな)、北谷(ちゃたん)に上陸。1週間後名護まで侵攻していく。米軍が上陸した地域の住民は戦火を避け沖縄北部へと避難する。私がこれから書こうとしているのは読谷の人々が避難していった大宜味村渡野喜屋(白浜)部落での日本軍による虐殺事件である。
 北部への人々の移動は悲惨を極め、そのときの様子を森杉多氏(当時、宇土部隊東郷隊)は以下のように語っている。

那覇近辺から10数日をかけて北部の指定町村にたどりついた避難民集団は、食料は得られず、衣服は破れ、老人は落伍し、病人は薬もなく行き倒れとなりました。背に腹はかえられず、食べ物を求めて村は荒らされ畠は掘り返され、山羊などの家畜は盗まれました。集団に後(おく)れ、杖をついて山道を急ぐ老人男女は道端にうずくまり、そのまま死んでいきました。道に迷った幼児も栄養失調で動けなくなりました。赤ん坊を背負った上に、幼児の手を引き、毛布や鍋やゴザなどを持つ若い母親は、ツワブキなどでは乳が出なくなり、乳呑児より先に息絶えました。

当時北部戦線を守備していたのは第32軍第44旅団第2歩兵隊長宇土武彦大佐のひきいる国頭支隊(約3千名)、通称宇土部隊である。八重岳の戦闘(4月13~18日)で敗れた宇土部隊は国頭(くにがみ)の山中にもぐり地域住民の食糧を強奪しながら潜伏活動を続けていた。

5月10日、渡野喜屋部落の避難民は米軍から食糧を支給されスパイを働いているとの地域住民からの密告を受けた宇土部隊の東郷隊長は2人の兵士(藤井兵長、松尾兵長)を調査に向かわせた。2人を案内したのは地元の少年である。ところが渡野喜屋部落で兵士たちは米軍につかまり連行される。その報告を少年から受けた部隊は避難民が彼らを米軍に売ったと理解し、米軍の来襲に備えた。

5月12日夜間、不安と恐怖にさいなまれた宇土部隊は渡野喜屋部落を襲撃し3人の男たちを連行、さらに近くの浜辺に残りの避難民家族を集め手榴弾を投げ込み、35人を殺害し15人に負傷を負わせた(そのほとんどが女性と子どもである)。
連行された3人の男たちは、それぞれ「頭目」、「ハワイ帰り」、「陸軍上等兵」などと呼ばれ、慶佐次(けさじ)川の河原で早朝から昼過ぎまで尋問された。注目すべきは3人の男たちを「捕虜」として扱っていることである。以下、森氏の証言より。

こうして12日夜、東郷隊は下野と私ともう1名(名前忘失)の3名を残して渡野喜屋避難民を襲い、翌早朝、3人の「捕虜」を後手に縛って連れてきた。下野と私は凄愴の気を漂わせて厳命する曹長らから「捕虜」を受け継ぎ、慶佐次川右岸の珍しくその辺りだけ広い河原で、3人を監視することになった。その監視は早朝から昼過ぎまで続けられ、その間に1人ずつ隊長の訊問が河原の奥深くにある隊長宿舎で行われた。

その後、部隊長の命令を受け、川下の雑木林に刑場が準備され、一人ずつ斬首と刺突により処刑される。
by reem-akemi | 2007-06-26 21:09 | 沖縄