9・11-「対テロ戦争」とは何か②
2006年 09月 12日
2006年09月12日
・経済的弱者の政治手段としてのテロ
テロリズムが、心理的威嚇や恐怖心を引き起こすことで一定の政治的効果をもたらすことを目的として行われる暴力行為であるとするなら、アメリカ政府が考えた「テロ戦争」は世界の人々を恐怖に陥れることに成功し、世界の警察としてのアメリカの立場を強固なものにしたかもしれない。
一方、各国・地域および大国の思惑など、貧困からくる経済問題を背景として、追い出された土地あるいは失われた民族・宗教のアイデンティティを取り戻すための政治的手段としてテロが存在するのも確かなことである。すなわち、絶対的貧困と非人間的な生活状況のなかで生きる人びとの「富めるもの」への憎悪がなせる行為としてテロが存在する。
今、世界で28億人もの人びとが一日2ドル以下で生活することをよぎなくされているが、こうした人びとには、食糧・栄養・清潔な飲料水・病院・住宅など、人間が生きるために最低限必要なものすら与えられておらず、紛争・自然災害・政治経済不安が彼らの生活をさらに悪化させている。
暴力の温床はこのような不安定な場所から生まれやすい。若者は生きることに絶望し、テロリストたちからのリクルートに容易に乗る。そのようにして自爆テロに自らの命を差し出した若者がどれだけ多いか…。しかし、そのような状況でテロを助長しているのもまた先進国の軍需産業―死の商人たちーであることも忘れてはならない。
問題は、彼らのように生存を脅かされた人たちが国家をゆるがすほどの暴力性を持つかどうか。たとえ持ったとしても、その暴力を封じ込めるために彼らにミサイルを撃ち込んだり、ひとつの国を破壊することに正当性があるかどうか。
・対テロ戦争で何が残ったか?
イラク占領から3年。テロリストはいなくなったか?世界は安全になっただろうか?
否(いな)。イラクに関していえば、この戦争で莫大な利益をあげたのは復興資金を水増し請求して大儲けをしたハリバートンを代表とする一部アメリカ企業、軍産複合体だ。イラクでの経済復興はライフラインを始めとしてなんら改善することなく、復興資金の多くは治安維持のために供与され、失業問題は2003年以来人々の不安材料となっている。
占領に耐えられなくなったイラク市民は難民化して近隣諸国に避難し、残ったものたちはイスラム急進主義者たちによってそれぞれの宗派に分離させられた。
いまや、イラクは確実に米英が望むような連邦制への道を歩き始めている。もし、それがこの戦争の最大目標であるとするなら、かなりの確立で達成できたといえよう。
しかし、米軍に家族を殺されたものは復讐のためにレジスタンスになり、イラク人を殺せば殺すほどレジスタンスは増えていくことになった。それは30年前にベトナム戦争で経験済みのことではないか…。
レジスタンスによる米軍への攻撃は日ごとに激しさを増し米兵の死者数はすでに2600名を越えた(イラク民間人の犠牲者は10万人とも言われている)。
そして、アフガニスタンに関していえば、2005年イラクにいたイスラム原理主義者たちがアフガニスタンに入り、タリバーン、地元の軍閥などと一緒に米軍に対する攻撃を始めた。静まっていた戦火が再び激しさをましてきた。
非対称であったはずの戦争が、地上戦になると、家族を殺された人々が戦士になることでいつの間にか逆転している。イスラム戦士の数は増えることはあっても減ることはない。2001年に始まった「対テロ戦争」はますます泥沼化する。
そもそも「非対称戦争」に正義があるという理屈こそ大きな欺瞞であり、私たちはそのウソに陥ってはならなかったのだ。落ちたミサイルの先にいるのはテロリストではなく無辜の市民たち。圧倒的な国家の暴力に殺されていく非力な市民たちだ。
そして、国家の前に非力なのは私たちも同じで、彼らは実は私たち自身の姿でもある…。
テロの脅威という新手の対立軸は、実は脅威にもなんにもならない小さな暴力であったはずが、国家の暴力というエネルギーを与えられたことによって脅威が拡散した。私たちはいまやこの暴力をどのように鎮めるかに苦慮している。
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以上「武力で平和は創れない」への寄稿に加筆・訂正を加えたものをアップしました。
・経済的弱者の政治手段としてのテロ
テロリズムが、心理的威嚇や恐怖心を引き起こすことで一定の政治的効果をもたらすことを目的として行われる暴力行為であるとするなら、アメリカ政府が考えた「テロ戦争」は世界の人々を恐怖に陥れることに成功し、世界の警察としてのアメリカの立場を強固なものにしたかもしれない。
一方、各国・地域および大国の思惑など、貧困からくる経済問題を背景として、追い出された土地あるいは失われた民族・宗教のアイデンティティを取り戻すための政治的手段としてテロが存在するのも確かなことである。すなわち、絶対的貧困と非人間的な生活状況のなかで生きる人びとの「富めるもの」への憎悪がなせる行為としてテロが存在する。
今、世界で28億人もの人びとが一日2ドル以下で生活することをよぎなくされているが、こうした人びとには、食糧・栄養・清潔な飲料水・病院・住宅など、人間が生きるために最低限必要なものすら与えられておらず、紛争・自然災害・政治経済不安が彼らの生活をさらに悪化させている。
暴力の温床はこのような不安定な場所から生まれやすい。若者は生きることに絶望し、テロリストたちからのリクルートに容易に乗る。そのようにして自爆テロに自らの命を差し出した若者がどれだけ多いか…。しかし、そのような状況でテロを助長しているのもまた先進国の軍需産業―死の商人たちーであることも忘れてはならない。
問題は、彼らのように生存を脅かされた人たちが国家をゆるがすほどの暴力性を持つかどうか。たとえ持ったとしても、その暴力を封じ込めるために彼らにミサイルを撃ち込んだり、ひとつの国を破壊することに正当性があるかどうか。
・対テロ戦争で何が残ったか?
イラク占領から3年。テロリストはいなくなったか?世界は安全になっただろうか?
否(いな)。イラクに関していえば、この戦争で莫大な利益をあげたのは復興資金を水増し請求して大儲けをしたハリバートンを代表とする一部アメリカ企業、軍産複合体だ。イラクでの経済復興はライフラインを始めとしてなんら改善することなく、復興資金の多くは治安維持のために供与され、失業問題は2003年以来人々の不安材料となっている。
占領に耐えられなくなったイラク市民は難民化して近隣諸国に避難し、残ったものたちはイスラム急進主義者たちによってそれぞれの宗派に分離させられた。
いまや、イラクは確実に米英が望むような連邦制への道を歩き始めている。もし、それがこの戦争の最大目標であるとするなら、かなりの確立で達成できたといえよう。
しかし、米軍に家族を殺されたものは復讐のためにレジスタンスになり、イラク人を殺せば殺すほどレジスタンスは増えていくことになった。それは30年前にベトナム戦争で経験済みのことではないか…。
レジスタンスによる米軍への攻撃は日ごとに激しさを増し米兵の死者数はすでに2600名を越えた(イラク民間人の犠牲者は10万人とも言われている)。
そして、アフガニスタンに関していえば、2005年イラクにいたイスラム原理主義者たちがアフガニスタンに入り、タリバーン、地元の軍閥などと一緒に米軍に対する攻撃を始めた。静まっていた戦火が再び激しさをましてきた。
非対称であったはずの戦争が、地上戦になると、家族を殺された人々が戦士になることでいつの間にか逆転している。イスラム戦士の数は増えることはあっても減ることはない。2001年に始まった「対テロ戦争」はますます泥沼化する。
そもそも「非対称戦争」に正義があるという理屈こそ大きな欺瞞であり、私たちはそのウソに陥ってはならなかったのだ。落ちたミサイルの先にいるのはテロリストではなく無辜の市民たち。圧倒的な国家の暴力に殺されていく非力な市民たちだ。
そして、国家の前に非力なのは私たちも同じで、彼らは実は私たち自身の姿でもある…。
テロの脅威という新手の対立軸は、実は脅威にもなんにもならない小さな暴力であったはずが、国家の暴力というエネルギーを与えられたことによって脅威が拡散した。私たちはいまやこの暴力をどのように鎮めるかに苦慮している。
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以上「武力で平和は創れない」への寄稿に加筆・訂正を加えたものをアップしました。
by reem-akemi
| 2006-09-12 00:20
| 小論